8. breeze

その晩の飲み会もお開きとなり、洋一はタクシーでホテルに戻った。チェックインは既に済ませて立った。新幹線で東京に到着し、ホテルへ荷物を置いてから飲みに出たのだった。

部屋に戻るなり、洋一はそのままベッドにもぐりこんだ。ひと足先に部屋へ戻り、既に横になっていた絹江が目を覚ました。「おぇっ、タバコ臭っ、お願い、シャワー浴びてきて。」と、絹江は耐え切れず洋一を叱った。だが、既に洋一は肉の塊と化し、大いびきをかき始めていた。絹江「もー、またぁ。」と呟いたが、どうしようもないと諦め、洋一に背中を向けて再び眠りについた。

残暑は陰りを見せず、まだ朝だというのに日の光がカーテンの隙間から強く差し込んできた。ベッドに横たわったままだったが、洋一は既に目が覚めていた。1時間も寝ることが出来ただろうか?

あまり記憶が定かではないが、夕べホテルに戻ったのは深夜2時過ぎ頃だったと思う。この一年ほどになるが、まだ明けきらぬ薄暗い時間には目が覚めてしまう。

絹江もそれには気がついていた。心配してネットで調べて見たが、早朝覚醒と言うらしい。鬱の兆候となる場合も多いようだ。心配になり医者に診てもらうように何度か言い聞かせた。だが、洋一は「こんなことで医者に行くやつがいるのか」と言うだけで、絹江の心配をよそに、全く聞く耳を持たなかった。

ただ横になっていても辛いだけだったので、絹江を起さぬようそっとホテルの部屋を出た。そして、洋一は近くの公園のベンチに座り、ぼんやりと時間をつぶした。両手を後ろにつき体を支え、顔を上に向け空を眺めていた。子供のころから、太陽の光を鼻の穴に入れるとくしゃみが出た。本当は太陽の光を直接見ると、なのかもしれなかったが、本人曰く“鼻の穴”であった。くしゃみが出てしまうので、太陽の方向を背にして雲の流れを眺めていた。夕べもあまり眠れてはいなかったと思うが、かといって特に眠くもなかった。ただ、酒がまだ残っているようで下を向くと気持ちが悪くなった。

一時間以上ベンチにただ座っていた。ふと、ポケットのスマートフォンを取り出し時間を確認した。6時を少し回ったところだった。

「もう朝の練習終わったかな」とつぶやき、直ヤンに電話をかけた。雨が降ろうが風が吹こうが、直ヤンはが早朝練習を欠かすことは無いことはなかった。歳を取ると共に会う機会は少なくなっているが、長年の付き合いからか、直ヤンのファンが知らない様な事情まで熟知していた。

「久しぶりだな、夕べ着いたのか」と直ヤンが電話の向こう側で声を弾ませた。「あぁ、みんなで飲んだよ。元気そうだな、直ヤン。」と洋一がボサボサに逆立った髪の毛をかきむしりながら話した。そして、「近いうちに道場に顔出しにいくからさ。」と付け加えた。

「いつまでこっちにいれるんだ」と直ヤンが聞いた。「決めていない。いま仕事していないし、時間はいくらでもあるから。」と洋一が答えた。「喧嘩でもして会社追い出されたのか?」と直ヤンが洋一をからかった。「そんなんじゃないんだけど、気持ちに力が入らなくなって。何かあった訳じゃあない。ただ辛くて。」と洋一がボソボソと答えた。直ヤンは黙って聞いていた。「もう無理って弱音はいてしまったよ。仕事は好きだったし、職場の同僚や先輩に対しても、べつに不満なんあった訳でもかったんだけどな。」と洋一が自分の気持ちを素直に伝えた。あまり詳しいことを話したわけではなかったが、それが精いっぱいだった。直ヤンはそのことをすぐに感じ取った。

しばらくの沈黙の後、「絹江さん元気か?一緒に来たのか?」と直ヤンが聞いた。「ああ、元気にしているよ。それより今度、引退試合なんだろ。見に行くからな。」と洋一は返事をした。「ありがとう、嬉しいよ。チケット準備しておくから。絶対来てな。今月の22日だからな。」と直ヤンが嬉しそうに言った。「わかった。詳しい事は道場で聞くよ。必ず行くから。」と言って、洋一から電話を切った。

洋一はホテルの部屋に戻った。絹江は部屋に備え付けのポットで湯を沸かしていた。「おはよう、すぐにコーヒー入れるね」と洋一に言った。「濃いめのやつな、それと量も多めで。少し頭が痛いんだ。」と洋一が言った。「そうだ、洋君シャワー浴びた?夕べひどかったんだからね。」と絹江が言った。洋一は、それには答えずにタバコに火をつけた。

ベッドに腰掛けコーヒーを半分ほど飲んでから、煙草を灰皿に置き「さっき直ヤンに電話してみた。引退するの決まったみたいだ。」と洋一が言った。「とうとう引退なのね。頑張ってきたからね。試合はいつなの?」と絹江が言った。「今週の22日が引退試合だ。それが済んだら仙台に帰ろう。」と洋一が答えた。

窓から差し込む光が少し強くなってきた。少しだけ開くホテルの窓から風が舞い込みレースのカーテンを揺らした。「ねえ、洋君。何か予定とかあったっけ?もしなければ、お天気もいいし東京観光してみようよ。ここからだと台場近いし。それから、」と絹江が洋一へ楽しそうに声をかけた。絹江のさらさらとしたまっすぐの髪が窓からの風にふわっと揺れた。

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