4. タコ

停学事件を遡ること1年前、山川と湯本、直ヤン、純は高校の入学式の日に出会ったのだった。4人とも同じクラスだ。山川幸男と湯本嘉之は苗字で、平直行と立花純は下の名前でそれぞれ、“直ヤン”、“純”と呼ばれていた。

その彼らが通った高校は、現在では男女共学の進学校として全国的に名が通っている。しかしながら、当時、彼らが在籍していた頃はといえば、商業化と普通科を合わせ、1学年だけで25クラス、しかも生徒の殆ど全てがヤンキーといったような男子校だった。それが3学年あることを考えると、それ相当の雰囲気を醸し出していたのは想像に難くない。

そうした生徒たちを指導しなければならないためではあろうが、教師たちも負けてはおらず、独特の雰囲気を持っていた。巨漢に物を言わせ体育会系バリバリの、うかつに逆らおうおものなら、有無を言わさず力で圧倒してくるようなタイプ、あるいは竹刀を片手に45度に傾いたサングラスをかけ、見た目で威圧するようなふたつのタイプに分かれていた。

もちろん、危険すぎて、若い女性の先生などはいるはずもなく、どこかの学校をリタイヤした70歳近い音楽教師が1名だけいたような記憶がある。

直ヤンは中学卒業後プロボクサーを目指しいちど上京した経験があった。格闘技好きで、生涯この道一筋の思いに何の疑いも持っていなかった。ただし、ボクシングそのものへの固執したこだわりがあったわけではなかった。格闘技であれば、プロレスでも、柔道でも、空手でもあらゆるタイプに興味を持ち、むしろそれらのすべてに通じたいという想いが、16歳の彼の根底を流れていた。

後々の話とはなるが、空手やサンボ、柔術などを極め、更には総合格闘技の日本における先駆者となった程の男である。そして、プロの格闘家として現役を引退した後も、天才的なその格闘センスから柳生新陰流や太気拳の免許皆伝をいとも簡単に取ってしまったのだ。

また、異彩を放ったのは格闘の世界だけではない。相手の関節をロックし、躊躇なくへし折ることの出来るその技は、人を治す施術の分野にも応用された。50歳を過ぎたころからは、整体師としての術も極め、人の心身を治癒させる道をも、格闘の道と並行して歩み続けたのであった。

しかしながら、そうした彼の情熱に反し16歳の直ヤンが初めて門をたたいたボクシングジムは、若き頃の彼が期待していた“明日のジョー”的なものとは異なり、会社帰りのOLがフィットネスに通うような軟派な雰囲気を醸し出していた。仙台にいる親からも、高校くらい出ておけという電話が毎日のようにかかってきた事もあり、一年後にいったんは仙台へ戻ったのであった。

高校の入学式当日は、やんちゃな中坊顔の新入生がお互いをけん制しあうような雰囲気で距離を置いていた。チョッカーと呼ばれていた蛇革があしらわれた先のとんがった靴や、ぺったんこにつぶされたの革の鞄。いまでは想像できないようなアイテムではあるが、当時のヤンキーファッションに誰物が気合を入れていた。

そうしたなかで、直ヤンはなんの気負いもなく、教室の真ん中あたりの席にただちょこんと座っていた。周りのクラスメイトとは異なり、普通の学生服で、特に眼立つような髪型でもなく、少しだけ癖っ毛のボサボサ頭をしていた。

後ろの席に座ったリーゼントヘアーのツッパリ君が、直ヤンの座っていた椅子の足を、例のとんがった革靴で小突いてきた。

「おまえどこの中学?」と山川が話しかけてきたのだった。直ヤンは振り返り、後頭部をボリボリとかきながら「桜ヶ丘」と出身中学を答えた。「ウソつくなよ、俺、桜ヶ丘だぜ。おまえなんか見た事無いぞ。」と、今度は椅子の背もたれを靴の踵で押し込んだ。

「俺、イッコ上だから」と気負う風でもなく直ヤンが答えた。「おまえ、中浪かよ。」と山川が調子に乗ったが、一方の直ヤンはどこ吹く風と、平然としていた。そして、「ダハハっ」と笑いながら山川の牽制を気にも留めずに受け流した。山川もそれにつられて、「ガハハっ」と笑いながら「俺、山川。お前は?」と尋ねた。「たいら、平直行」と答え、またボサボサ頭の後ろ側をボリボリと掻いた。

山川はいつの間にか、さも昔からの馴染みだったかのように話し始めていた。「桜ヶ丘だったらさ、能美先輩とかしってる?」と中学時代の交友関係を山川が聞いてきた。「少しだけ話したことあるよ。中山の自転車屋の近くに住んでる奴だろ?なんていったっけ・・自転車屋」と直ヤンが言った。「そうそう、サイクルメイト・シラサワ。俺んちも、そのすぐそば。」と山川が言った。「へ~、もしかしたらロータリーの交番の近く?」と直ヤンが聞いた。「そうそう、おまえんちは?」と山川が直ヤンに聞いた。「俺は長命が丘。今日もその自転車屋の前を通ってきたよ。」と直ヤンもご近所話にのってきた。「じゃあ、今日一緒に帰らねえか。せっかくだし」と、山川が直ヤンを誘った。ちなみに、何がせっかくなのかは意味不明だった。「あっ、申し訳ない、今日は部活でも回ってみるつもりなんだ。」と直ヤンが山川の誘いを断った。

「拳闘部か、少林拳ってとこかな」特に高校の部活レベルに期待している訳でもなかったが、どこか格闘技系のところには所属してみようと思っていた。幾つか見学してみて、特にこれといった理由はなかったのだが、なんとなく部活は拳闘部に所属した。ボクシング部ではなく漢字で拳闘部と呼ばれていた。そういえば、全くの余談だが、当時全盛期だった暴走族もチームの名前をやたらと漢字で表現していた。

拳闘部の有名な先輩にはプロボクシング日本フライ級チャンピオンになった“伊賀九朗”がいた。もちろん、伊賀九朗はリングネームだ。現役時代は学校の玄関に額縁入りファイティングポーズの写真も飾られていたようだが、引退後コメディアンになったタイミングで撤去されてしまったらしい。写真で見る彼の耳はちぎれてなくなりかけていた。高校時代には既にちぎれていたという噂もある。ボクシングを始める以前の幼少期から、やんちゃな人生を過ごしてきたからなのかもしれない。

伊賀九朗は矢吹丈(漫画「あしたのジョー」の主人公)のモデルになったとも言われている。ボクシングは一般的に両腕で顎やテンプルをガードするようなファイティングフォームを取る。しかし、伊賀九朗の場合は、矢吹ジョーが力石徹と戦ったときのように、両腕をぶらんと下げたままのノーガードスタイルだった。左目が見えないハンディも抱えていた。相手のパンチをあえてかわさずに、ノーガードで打たれ続ける。そんな彼を対戦相手は口々に「本当に怖い」といったものだった。パンチを打っても、打っても、いくら打ち続けても不敵な笑みを浮かべ挑発的な言葉を浴びせてくる。クリンチされたときに「効いてない、効いてない」と耳元でささやきかけて来る。そして攻撃していたはずの側が打ち疲れ、戦意を喪失し、最後は伊賀九朗のラッシュに襲われる。

直ヤンは、かつて伊賀九朗がいたその拳闘部へ入部し、1学期の後半には新人戦で優勝していた。でも、教室で友人たちにそのことを聞かれると、「2人しかエントリーしなかったから」とおちゃらけていた。

ボクシングの練習をしつつ、部活が終われば極真会というフルコンタクトの空手道場にも通っていた。型を重視する寸止めという流儀に対して、突きや蹴りを相手に直接入れる実戦向きの格闘スタイルをフルコンタクトという。

しかしながら、プロの格闘界で後にグラップラーと呼ばれた彼にとって、高校の部活の域を出なかった拳闘部は次第にその魅力を失っていった。ちゃんと顔を出していたのは、最初の半年程度であった。2学期の中ごろからは、学校が終わるとフルコンタクトの空手道場に、そのまま直行していた。かといって、それほど気負いはなく淡々と稽古に打ち込んでいたのだったが、彼に備わった持ちまえともいうべき素質のおかげで2年生に終わりには黒帯までとってしまった。

休み時間になると山川が直ヤンにふざけてちょっかいを出すこともよくあった。山川独特の「ナロー」という掛け声とともに勝負を挑むのだが、全く相手にならなかった。もちろん山川でなくとも、直ヤンとまともに戦う事のできるクラスメイトは皆無だったのは言うまでもない。

何度か山川からの挑戦が繰り返えされるうちに、次第に直ヤンも楽しくなってきた。教室の後ろで繰り広げられる格闘技ゴッコは直ヤンの独断場だった。ただ単に強いというだけではなく、カッコいいアクションも加えてくれるものだから、観戦していた他のクラスメイトもみな興奮してくる。

あるとき、「ナロー」という掛け声とともに、山川が直ヤンの側頭部めがけてバランスの悪いハイキックを仕掛けたことがあった。本人はハイキックのつもりでも、単に上半身が後ろに反り、膝が伸びきった状態で足を振り回してくるだけだった。山川はいつも、肘と膝に力が入り、関節を曲げずにロボットのように動いてくる。独特のかっこ悪さだった。

直ヤンは楽に上体を右横に振り、左からくる山川の右足を軽くかわした。そして次の瞬間、教室の後ろ側の壁を一歩二歩駆け上るように蹴り上げてから、直ヤンの後ろ回し蹴りが山川の後頭部を襲った。傍で見ていて、まるでどんな動きをすればそうなるのか全く分からなかった。回転しながら壁に弾んだゴムボールが、遠心力を伴い、水平に変形し、山川の頭を直撃した感じだった。もちろん、相手が怪我をしないように髪の毛をかすめる程度に加減されたのだったが。

こんな場面を後々の格闘技ファンが見ればどれほど興奮するだろうか。正に格闘系の劇画に登場する主人公そのものだった。その当時はまだ格闘技と言ってもテレビのプロレスくらいしか思い浮かばない様な時代ではあったが、それでも、日々繰り返されるそうした風景は、周りで観戦していた高校生たちの血液を逆流させていたのは言うまでもない。

「あんなに強いのに、直ヤンって見た目、怖くないよな。」と、あるとき山川が洋一に話しかけた。「本当に強い奴なんて、相手を威圧する必要ねーからな。」と洋一が答えた。「じゃあ、おまえは全然大したことねーな」と山川が洋一をからかってみた。

次の瞬間、洋一のゲンコツが山川の側頭部、耳の付け根当たりへボコッと鈍い音と共にめり込んだ。「ナロー、何すんだよ」と山川が反射的に殴りかえそうとしたが、それより先に洋一の膝が山川の太ももの筋の間をとらえた。

仲間同士のじゃれあいの範疇ではあったが、それでも山川は床の上に這いつくばり、洋一の膝が入った左の太ももを抱えて声も出せないあり様だった。こうした日常ではあったが、それでも彼らの当時の感覚で言えば遊びのうちだったのだ。

「おまえの心の中に恐怖心があるから、誰を見ても不安になるんだよ。目の前にいる奴が皆、ケンカ売ってくるんじゃねーかって常に不安になって。そこいくと、直ヤンなんかはあっけらかんとしているだろ。強い奴っていうのはそんな感じだよ。」と、洋一はさも自分の事のように言った。

木村洋一は学年がひとつ上だった。直ヤンとは小学校からの親友で「洋一」とか「ヨウ」と呼ばれていた。ヤンキー全盛期だった当時、彼らの通っていた高校でも、それはもうすさまじかった。全校生徒が3,000人位はいる超マンモス校というなかで、ほとんどがリーゼントやスキンヘッド、短ランという丈の短い学生服に、幅の広いボンタンと呼ばれるズボンで決めていた。それが当時の彼らのいかしたファッションだった。

洋一もポマードでカチッとリーゼントを決め、ひたいの両脇にはそり込みが入り、友達でなければ怖くて話も出来ない様な見た目だった。イメージで言えば、マンガのビーバップハイクールに出てくるようなキャラクターのファッションだ。教科書など入っているはずもないぺったんこの革鞄、短ランの裏側には龍や鬼の刺繍も入り、長財布をズボンの後ろポケットに差していた。自慢のリーゼントを整えるためのクシも必需品だ。

新学期の最初の頃、洋一は退屈しのぎといった様子で、直ヤンのいる教室まで行ったものだった。表面上は暇だからという態度ではあったが、違う校舎の端の方まで行くのだったから、直ヤンが同じ高校に入学したことがよほど嬉しかったのだろう。何を話すわけでもなく、まして山川のように格闘技ゴッコとかには参加することは無かったのだが、ギロッとした鋭い眼光のままで、ボソボソと直ヤンとひとことふたこと言葉を交わし戻っていたった。直ヤンの後ろの席にいたこともあり、山川とも次第に顔なじみになっていった。

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