日が暮れて、絹江と二人で軽く食事をしたあと、洋一とは直ヤンの道場を尋ねた。1階は受付や待合室、一般の人向け柔術道場やフィットネスジムがあり、2階に直ヤンたちプロが稽古する総合格闘技の道場があった。まだ引退試合まで10日以上あるというのに、雑誌の取材か何かで、記者が何人か直ヤンの練習風景を見入っていた。カメラを構えていた関係者もいた。
洋一は受付へ来館を告げたあと、待合室でそのまま待った。「会いにいかないの?」と一緒に来た絹江が洋一に聞いた。「待ってる」と洋一がボソッと答えた。「だって、待ってるっていっても、まだ1時間以上あるのよ。受付の人も平さんに取り次いでくれたと思うよ。」と絹江が言った。
洋一は遠慮していたのだ。たまたま昼に絹江から洋服を選んでもらったおかげで、Tシャツにジャージのズボンいったラフな格好ではなかった。それでも、キンヘッドに、45度斜めに傾いたメガネなど、まだ少し胡散臭さも残っていた。道場に行けば自分と似たような格好の人間がいると勘違いしていたのだ。だが、来てみると、テレビなのか雑誌なのか分からないが、関係者らしい人たちがカメラを構えての練習風景を取材しているではないか。
そのため洋一は、直ヤンに迷惑をかけぬ様に、こうした状況が落ち着くまで、玄関を入った直ぐの所にある長椅子に腰かけ、待っていようと思ったのだった。
「コンビニで飲み物買ってこいや。直ヤンのぶんもな。」と洋一は絹江に指図した。「飲み物なら自販機あるでしょ、そこに」と絹江が口答えしたが、少しして無駄だと思い玄関を出て行った。絹江はそのまま、しばらくの間戻ってこなかった。コンビニの少し先にあるファミレスで時間を潰すことにしたのだった。
洋一がなかなか来てくれないので、直ヤンが自分から玄関付近にやってきた。「なーにやってんの、早く来いよ」とニパッとした笑顔で、直ヤンが声をかけてきた。
「いや、いいんだ」と、洋一は答えなっていない答え方をした「なーにが」と直ヤンが、相変わらずの笑顔で言った。「久しぶり」と、洋一は、またしても会話の意味が繋がらない返事をした。
「昨日電話もらたっただろ」と直ヤンが言った。「コンディションは?」と、洋一は直ヤンの問いかけを聞いてるのかいないのか、自分の頭の中にあることをそのまま話した。
「ありがとう、来てくれるんだろ、試合」と、直ヤンもそんな洋一を相手に話を続けた。「あぁ、行かせてもらうよ」と、洋一は初めてまともに直ヤンのいう事に反応した。
「ここじゃ何だし、とにかく上に行こう。彼女はどこ?」と、洋一の背後を見ながら直ヤンが言った。「もうすぐ来る」と、洋一は相変わらずつかみどころのないような返事をした。
直ヤンが受付の女の娘に気さくに声をかけた。「こいつの連れが来たら、2階のロッカールームに案内してもらえる」と。「了解でーす。」と、受付の娘は親しげに答えた。
「忘れないうちに渡しておくよ、最前列2枚」と、ロッカールームの奥から引退試合のチケットを持って洋一の方へ駆け寄ってきた。「ありがとう。いいのかこんな上等な席」と、嬉しそうに洋一が言った。
「当たり前だろ、お前が見に来てくれるんだ。」直ヤンも、嬉しそうに言った。親友が来てくれた事、そして引退試合を観戦してくれることを素直に喜んでいた。
2人分のチケットをふたつに折畳み、その日絹江に選んでもらったばかりのシャツのポケットへ大切にしまい、ポケットのボタンを閉じた。
洋一は直ヤンの胸板に軽く拳をぶつけた。直ヤンはすかさず、その手首を取った。次の瞬間洋一は手首を極められ、さらに体がクルッと回転し床の上に押さえつけられていた。なぜそんな体勢になったのか、洋一にはまるっきり解らなかった。加減はしてもらっているはずではあるが、あまりの苦しさに直ヤンの腕をポンポンと2回たたいた。
「なにやってるの、男同士で」と言いながら、絹江がロッカールームに入ってきた。「あれ、絹江ちゃん。元気だった?」と、洋一の体を自由にしつつ、直ヤンが絹江に挨拶した。
「平さん、久しぶりです。ヨウ君喜んでるでしょ、平さんに会えて」と絹江も直ヤンに挨拶した。洋一はまだ、カブトムシの幼虫のような姿で床の上に縮こまっていた。
「せっかく来てくれたんだし、このあと3人で食事に」と直ヤンが言いかけたタイミングで、「いいの今日は。それより、練習の邪魔しちゃってごめんなさい」と絹江が言った。
「ほんと、今日はもう帰るよ。試合が終わったらゆっくり飯でも食いに行こう。また来るからさ。」と、洋一がゼイゼイとした息を整えながら言った。
「平さん、こんどの試合絶対に勝って下さいね。」と絹江が右手を差し出した。直ヤンは絹江の右手を、彼の両手で包み込むようにして握り返した。そして「ありがとう。」と答えた。
カブトムシの幼虫もやっと立ち上がることができた。そして直ヤンに別れを告げ、絹江と共にロッカールームの裏手にある扉から非常階段で道場を出て行った。
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