坂本が所長室をノックした。すぐには反応が無かったが、返事を待たずにそのまま入室した。
「きゃっ」と小さな声を出し朋子がドアの方向に視線を走らせた。少し前まで、給湯室でいちゃついていることは坂本も知っていたが、まさか個室に2人きりでいるとは思ってもいなかった。
「お前、何すんだよ」と湯本が訳の分からないことを坂本に言った。「何するんだよって、なんですか?所長こそ」と坂本も言い返した。「何するんだって、なんですかって、何だよ」とますます訳の分からないことを湯本がいった。
挙句の果てには、「もー、急に入ってこないでノック位してよ。モッちゃんのバカ」と朋子も言い出した。言いながら朋子ははみ出たブラウスをスカートの中に戻して部屋を出ていった。
朋子が出てってから、「部屋に入るときはノックぐらいしろよ」と湯本が坂本へ言った。
「ちゃんとしましたよ、ノックは。それよりも鍵くらいかけたらいかがですか?この部屋には鍵が無いのですか?」と坂本が言った。「すまん、忘れていた」と湯本が言った。(そんなに忘れるほど夢中だったのですか)と言いかけ、バカバカしくなりやめた。
「ところで、モッちゃんは何しに来たの?」と湯本がやっと聞いてくれた。「あっ、そうでした。所長、この前お渡しした企画書は読んで頂けましたか?」と坂本が言った。
「このまま、契約社数が増え、電力利用が二次曲線的に上昇し続けると空調システムがパンクしてしまいます。今のうちに予防措置を取らないと、お客様のサーバーがダウンするだけではなく、火災の危険性すらあります。」「空調機の台数を増やせば解決できるだろう」と湯本がありきたりの返答をした。
坂本の企画書を読むまでもなく、ITシステムなどを構成するコンピューターなどの高密度化には拍車がかかり、またそれに伴い大量の電力を必要とする。そして電力を使えば使うほど、それに伴い高熱が発生してしまう。その熱を適切に冷やさないとコンピューターがダウンしてしまうのだ。そして、最悪の場合には火災に繋がってしまう。
現時点では対策として、大型空調機を何台も設置し、それが噴き出す冷気でコンピューターからの排熱を冷却する仕組みであった。
「まだ、今の段階だとフロリナートが高価すぎるだろう。」と湯本が坂本に聞いた。フロリナートとは、高熱を発するコンピューターを冷却するための液体である。
坂本の企画内容は、熱源となる機器類を液体中へ沈め冷却する新技術の導入であった。スーパーコンピューターでしか使われていない冷却方式ではあったが、大学など研究機関では一般のコンピューターにも応用する技術の開発が進められ、それが実用段階となりつつあった。「今投資しなければ、前には進みません。必ず液浸冷却の時代は来ます」坂本の言葉には力がこもっていた。
「もうひとつ問題がある。サーバーなどのコンピューターを液体に沈めても正常に動作するのは理解できたが、光ファイバーはどうなんだ。端子同士の接続点で光の屈折率が変化してしまうだろう。
電気信号と違い光の波長が変わってしまえば、光ファーバーを伝わる信号が正確に伝達しないだろう。その問題はどうするんだ。」と湯本は2つ目の問いを坂本に投げかけた。冷却する液体は電気を通さないため、電子機器をその中に沈めても、動作に問題は全くなかった。
しかしながら、その機器に光ファイバーが接続される場合、コネクタとコネクタの間に液体が入り込み、光の屈折率を変えてしまうのだ。屈折率が変化していしまえば、信号の波形が乱れデータが壊れてしまうという問題が予想された。
「液体は冷却対象の機器類と共に専用の箱に収容されます。液体に沈められた機器類と箱の外までの距離は長くても数十センチです。その間だけであれば光ではなく、メタルの接続でも伝送速度を低下させずに通信が可能となります」と坂本が答えた。メタルというのは通常の電気信号を流す銅線の事だ。
「いちおうモッちゃんの提案は受けておくよ」と湯本は煮え切らない返事をしてその場を終わらせた。湯本の反応に、坂本は反発する気力を失ってしまった。
湯本に聞こえない様な小さな声で、「モッちゃんって、私の事ですか?」と言い捨て所長しつを背にした。扉を閉めてから、いつぞやの昼休みの原発事故の話が脳裏に浮かび、デジャブを見ている想いがした。
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