私 6-4.私のなかの苦しみ 苦しみの経験が記憶として刻み込まれる度に、その時と同様の感情や観念が引き出される頻度は高まります。そして、次第に心を浄化し苦しみを減らすことが難しくなってしまいます。感情や観念、自己意識の呪縛を解き、苦しみから逃れることはできないのでしょうか? 2021.04.25 私
私 6-3.気づき 「私」が考え判断することで感情や観念が生み出されているのではありません。脳の生理的な反射作用により感情や観念は発生しています。このことに気づくことができれば、本能がセットした苦しみという仕掛けは消滅します。感情や観念の主人公は存在せず、自然の営みがただそこにあるだけなのですから。 2021.04.24 私
私 6-2.命の浄化 自然の中で生命を授かり、自然の営みのままに、平穏に命を全うする。このような生き方は可能なのでしょうか。生き永らえ、種を存続させ、なおかつ安穏な生涯を送ることは、如何にして実現できるのでしょうか。どのように苦しみを浄化さえることが出来るのか、私たちがこれからの時代を生きていくために解決すべき課題がここにあります。 2021.04.24 私
私 6-1.人間が背負っている苦悩 植物は花を咲かせ、蝶は花々の間を飛び交い、自然環境との調和を図りながら生きています。それに対して、なぜか人間という動物は、宿主である地球環境の破壊をいとわず自然に背いた行動をしてしまいます。これはもしかしたら、他の生き物にはない自我とか自己意識が、そうさせているのかもしれません。 2021.04.23 私
私 5-4.本能の抵抗 苦しみを自覚できない「私」は、煩悩に刺激されるがまま振る舞い続けます。慢心や欲や怒り、迷いが、その時々の観念となり「私」を支配し続けます。人は気づけないままに、煩悩に囚われ、苦しみにあえて執着し続けているのです。 2021.04.22 私
私 5-3.輪廻するカルマ 仏とは「ほとけ」と読みます。これは死ぬことですべてのカルマ(記憶)が「ほどける(解ける)」ことから、「ほとけ」と読むようになったと聞いたことがあります。生涯蓄積され続け複雑に絡まったカルマが解けて無に帰すという仏教的な考え方です。 2021.04.21 私
私 5-2.観念の個人差について 生まれたから現在に至るまでに歩んできた人生が、その人に生じる反応や心の中に生まれる観念となり現れます。支配する観念の人による違い、個体差とは、記憶として焼き付けられた情報と、それが引き出される頻度により異なります。もちろん、変えてゆくことだって可能です。 2021.04.20 私
私 5-1.私という存在 「私」という特別な何かが存在しているわけではありません。空に雲が流れている、その雲が色なり網膜に投影されているのと同じです。風が頬を撫で、空気の分子を肌の触覚が感じているようなものです。決して雲そのものが私ではなく、風そのものが私でもないのです。 2021.04.16 私
私 4-2.言葉の性質 「いま・ここ」を真実として捉えているつもりでも、言葉を使った瞬間、真実はリアリティを失ってしまいます。過去の経験が言葉であり、その適用範囲内で現実を言葉が置換えてしまいます。真実を捉えている”つもり”にさせるのが言葉の特性といえるでしょう。 2021.04.15 私
私 4-3.反芻思考 私は脳が作り出した虚像であり錯覚だとしましょう。自己意識は脳が作り出したアバターであり、本当は私などどこにもいないと考えてみましょう。ただ脳があり、体があるだけです。ここに現代社会で存在意義の薄まった苦しみなどの観念を少なすするためのヒントが隠されてはいないでしょうか? 2021.04.15 私