4-3.反芻思考

何かしらの観念にとらわれ、そこから抜け出すことの出来ない苦しみを経験したことはありませんか?

私たちの心を支配している観念は、私たち自身の意志により発生しているように思いがちです。そのため、忌々しい観念の発生源である自分自身に責任を感じ、その結果苦しみ続けてしまいます。

言葉の無限ループ

現れ出る無形の観念に対し、言葉を用い、言葉により弁解し、言葉によって否定しようとし、思考がループしてしまうことがあります。

何度も何度も同じような言葉を繰り返し、なんとかして自分自身を落ち着けようと試みます。ひたすらに、自分自身から発生した観念への責任を取るために、言葉によって解決しようとし続けます。

自分の内側から現れ出た観念に罪悪感をもち、誰にでもなく詫び、否定し、言葉を反芻します。

呪文のように言葉を繰り返すほど、言葉はむなしくも空回りしてしまいます。そして、言葉の影響力は次第に萎え、意味を持たない文字が頭の中を行き来し始めてしまいます。

文字化し、記号化してしまった言葉を唱え続けます。

強迫観念

不意に湧き出てきた観念に対する否定的な行為。または、自分を説得させるための反芻思考。これらの行為には際限がなく、人によっては頭が麻痺するような状況に陥っても、延々と繰り返されます。

何も手に付かず、思考停止状態に陥ってしまいます。さらに厄介なことに、思考の反芻が続くに従い、別の不安、苦しみなども新たに発生することさえあります。

どうにも収拾がつかず、苦しみの無限ループから抜け出せない自分を、傍で見ている別の自分がいます。だから苦しいと感じるのですから、人の脳とは不完全なものです。

苦しみのプログラム

人の脳は生きている限り、継続して何かしらの観念を生み出しています。そして、観念は私たちを統制しています。

観念の統制には、欲や怒り、悲しみなどの煩悩が伴うものです。長い年月をかけ、弱肉強食の環境を生き抜き進化してきた”脳”にとっては、「私」という自我が苦しもうが悲しもうが、そのことは重要でなかったのかもしれません。

脳が何よりも優先しようとしたのは、脳自体の存続だったことは間違いないでしょう。進化の過程で苦しみを獲得したことが最適解であったのか、偶発的な事象であったのかは解かりません。でも、苦しみがあるが故に、危険を回避したり、外敵を倒したりしながら生き永らえ、種を存続してきたことは認めざるを得ません。

そして、もしかしたら原始のころから脳が追い求めてきた食の確保や命の存続は、現代文明において既に実現できているのかもしれません。

安全な社会環境が整い、高度な文明に支えらた現在においては、苦しみはあまり必要のない機能といえるでしょう。そうであるにもかかわらず、原始的な生存本能は残存し、それ故、いまだに怒りや悲しみの感情に支配され、苦しみ続けているのでしょう。

観念による自己制御

観念とは「私」という自我を自覚させるための刺激であり、自我により生存本能は効果的に機能することが出来ました。

しかしながら、「私」とは脳内スクリーンに映し出された虚像であり、脳自体は自然界に存在する物質ひとつに過ぎません。

極論を言えば、地球上にある水や空気と同等、宇宙を漂う塵のような存在ともいえるでしょう。

私とか自分と思っていた存在は、いつか時間と共に風化し細かな塵となってしまいます。その風に吹かれて飛んで行ってしまうであろう塵が寄せ集まり、意志のような反応をしているなんて興味深いことですね。

苦しみを減らすためのヒント

「私」は脳が作り出した虚像であり錯覚だとしましょう。「私」という自己意識は脳が作り出したアバターであり、本当は「私」などどこにもいないと考えてみましょう。

ただ脳があり、体があるだけです。

現代社会で存在意義の薄まった苦しみの観念を少なすするためのヒントが、ここに隠されてはいないでしょうか?

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