「これで終わりなのか。」洋一は自らの死を予感した。まだ体の自由が幾分か残っているうちにと、洋一は2階にある自分の部屋から1階のリビングへ降りて行った。
もし誰かが見ていたらきっとまともな状態でなかったに違いない。洋一自身もどうやったら、その時の体調で階段をひとりで降りることができたのか分からなかったであろう。
“ごろん”とリビングの入り口のドアにぶつかり、その音で奥の部屋にいた母親が起きてきた。「少し辛いから横にならせて。」洋一は母親の京子に伝えた。次第に洋一ののど元まで血があふれてきたが、吐き出す力はもはやなかった。
年老いた彼女には、倒れた洋一を動かす力もなかった。京子は全てを悟った。ソファーにあったブランケットをそっとかけ、枕になるようにと薄めのクッションを洋一の頭を持ち上げ床との間に挟み込んだ。
その場で、京子の頬を涙が幾重にも流れ、ポタポタと彼女の手の甲を濡らし続けた。温かな体液はそのまま、洋一の両手を満たしていった。
もうすぐ夜も明けようとしている薄暗い部屋のなか、ゴツゴツとした分厚い掌が、少しだけ彼女の両手を握り返したようにも思えた。
洋一は朦朧とした中で、やわらかく、とても温かい何かにつつまれ、夢の中を漂っていた。
「昔からこうだったんだ。」苦しみは感じられなかった。いっさいのものが優しさに溢れていていた。空間も、時間も、光も、音も、何もかもが同じに感じた。全てがありのままのなかで渾沌としていた。
「目が覚めたのか?洋一。」と、直ヤンの顔が真上から覗き込んでいた。いつの間にか、リビングで手を握っていた母親の横に直ヤンがちょこんと胡坐をかいて座っているではないか。
「直ヤン」と、洋一は幼馴染の名を呼んだ。そして、「俺、倒れたのか?」と直ヤンに聞いた。
「ずいぶんうなされてたんだぜ。よっぽど怖い夢でも見てたんだな」と直ヤンは洋一をからかうように答えた。
「なんで直ヤン、半ズボンはいているの?小学生の頃みたい。」と洋一は直ヤンに話した。
「おまえだって小学生だろっ!おまえこそ何言ってるんの?」と直ヤンはケラケラ笑いながら洋一の手を引きいた。
「早く来いよっ」と言いながら直ヤンは自慢の5段変速自転車にまたがった。
「なぁ~んだ。おれ、直ヤンの自転車借りて校庭を走っていたんだけっけ。ってことは、さっきまでのはぜーんぶ夢か」と洋一が言いながら起き上り、直ヤンの自転車の荷台に飛び乗った。
立ち乗りの恰好で荷台に立ち上がってから「なんか、心配して損した気分」と洋一がつぶやいた。
直ヤンは何がおかしいのかわからないが、相変わらず笑いながら「ちゃんとつかまってろよっ」と、後ろの洋一に声をかけた。
洋一をのせた直ヤンの自転車はぐんぐん加速していった。
太陽が真上に昇っていた。二人はキラキラとした汗を後ろに飛ばしながら丘の上まで一気に駆け上がった。緑の丘の上の向こうは断崖絶壁で、水平線が空のかなたまで続いていた。
直ヤンは洋一に「向こうの小島まで一気に突っ走るぞっ」と言いい、その瞬間自転車ごと海に飛び込んだ。海に落ちた音がとどかないほどの絶壁だった。
直ヤンと洋一はブクブクと海の底に潜って行った。ぶくぶくと大小の空気の泡が海面近くまで浮かんできた。
小さな自転車と、ちっちゃい二人が沈んだ海面は、やがて底の方から大きく盛り上がり、はるか向こうの小島も呑み込むほどの灰色の影に覆い尽くされた。
灰色の影は数千里もある巨大なクジラとなり、全体を覆うように海面近くまで姿を現わした。その泳ぎっぷりは悠々としていた。
海が100メートルは沈下したと思えた。大きな口の中へ海の水を、まるで万物をありのままに飲み込むかのごとく流し込み、前へ前へと進んでいった。
そして、灰色の巨大な背中から青空全部に潮を浴びせかけた。クジラが撒いた海の潮水は地上を覆う雨となり、大地すべてに降り注いだ。
降り注いだ雨が再び海を満たした次の瞬間、クジラがその大きな尾びれを大海原へ叩き付け天空に向かい飛び上がった。
地上の山々を覆い尽くしながら数万里はある巨大な翼をバサンとひと仰ぎさせ、大空を滑空し、鳳凰が天高く舞い上がった。
そして悠々とたその姿は、いつしか南冥の天地溶け込んでいった。もはや、直ヤンも洋一も海も空も一斉が等しく同じであった。
山間の遅い朝日が黒い山々を息づかせつつあった。湯本を駅まで送り、山川は小屋の前にある小さな畑へを耕していたが、ふと手に持った鍬を置き、遠くの空へ目をやった。つい今しがたまで漂っていた朝霞が光のに溶かされていた。
その光塵の、もっと向こうの遠い空から「夢、み・て・た」という小さな声が聞こえたような気がした。
「大覚ありて而る後に、此れ其の大夢なるを知る、か」と山川が呟いた。何もかもをあるがままに包み込むような優しい風がそっと吹いた。
タイトル: 無法
発効日:2018年11月1日
著者: 下山 崇
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