加藤絹江は親友の森川希美とカウンターで杯を傾けていた。仙台の文化横丁にある、カウンターだけの、こぢんまりとした店だった。
文化横丁は大正時代に出来た活動映画館を中心に賑わってきた商店街だ。今となっては当時の華々しさもも廃れてしまい、周囲の高い建物に空を奪われ、薄暗い路地の中で飲食店や乾物屋などが窮屈そうにひしめいているだけだった。
文化横町には路地が2本ある。どちらか一方を20メートルほど進んでいくと、それぞれの路地を繋ぐ枝道に公衆トイレが設置されていた。界隈の店を利用する客はそこで用足しをするのだが、そのせいかションベン横丁というあだ名が付けられていた。もちろん、女性の客が困らないように、最近になって開店した店などでは、古い店舗の改装のときに、ちゃんと店内にトイレを設置するようになってきていた。ほんの少しずつではあるが、若い客層をターゲットにした洒落た飲食店や雑貨屋も増えてきていた。
「あんまりこの辺歩いたことなかった。」と希美が言った。「そうね、こんな奥まで入ってくることなかったでしょ。」と絹江が答えた。「うん、落ち着いた店だね。」と、絹江に連れてきてもらった文化横丁の小さな店のカウンターに腰掛けながら希美が言った。
絹江と希美の2人以外に、客はひとりだけいた。年配の男性がカウンターの奥側で大将と雑談を交わしている。
「ちょっと意外かもしれない、こんな感じの店に絹江に連れてきてもらえるなんて。」と希美が言った。「昔おばあちゃんが元気だったころに、何度か連れてきてもらったの。おばあちゃんも若いころはよく食べに来ていたとか言ってたの。先代の大将とは馴染みだったみたい。」と絹江が答えた。映画館が栄えていた頃の横丁の様子を、絹江は幼いころに祖母から聞かさたことがあった。
「へぇ、なんか素敵。おばあちゃんが馴染みだった店に孫を連れて来ていたなんて。」と希美がうらやましそうに言った。「そうなの。なんかね、孫の私とここでお酒飲めるのが嬉しいって感じだった。」と祖母が元気だった頃を思い出すように語った。
「で、月日が流れ、その孫が友達を連れてきたわけだ。ありがとね。」と言いながら、希美がおいしそうにお通しのホヤをつついた。「新鮮だからこのまま食べてみて、酢で〆てないから。」と、さっきカウンターに座ったタイミングで二代目が出してくれた。殻をむいて、さっと水で洗っただけで、海水の塩気だけの素朴な味付けだった。これが日本酒との相性は抜群だった。
この店に置いている日本酒は、地酒の一ノ蔵と日高見、そして隣県山形の十四代だった。希美は店の大将のお勧めで辛口の日高見、絹江は十四代を選んだ。
「やっと赤貝も食べられるようになったんだね」と、地元閖上(ゆりあげ)産の赤貝を肴に、絹江は日本酒の入った蕎麦猪口に口を付けた。「そうそう、松島の牡蠣も復活してきたみたいだよ、夕方のニュースでも流れていた。」と希美が言いながら、次は何を食べようかと店の大将に視線を配った。
地元松島産の牡蠣は全国的にも有名だったが、閖上の赤貝も最近では築地に出回るようになり、ブランド品として取引されていたらしい。それが2011年の大津波で港や漁場が壊滅してしまい、この数年全く出回らなくなっていたのだった。
「ね、来てよかったでしょ。今日は私のおごりだから、遠慮しながら食べるのよ。」と絹江が声を張り気味に言った。「あ、ありがと。それは嬉しいけど。」と希美が言った。「けど? なあに?」と絹江が希美の言葉に反応した。「じっ、実に地味な誕生日よね・・・」と希美が視線をカウンターに向けながら言った。「そうかな、三十路の女がふたり、鮨でもつまんで、まったりと語り合う。よくない?」と絹江が答えた。希美は特に絹江の答えるでもなく、それじゃあということで、カウンターのガラスケースに並んだネタに見入った。
「おじさん、私、酔っぱらう前に少し食べておこうかな。今日は絹江がご馳走してくれるみたいだし。」と希美がカウンターの向こう側へ話しかけた。「へいっ、なに握りましょう?」と、二代目が赤酢を使ったシャリの鮨桶に手をかけた。「それじゃあ、ヒラメください。」と希美が注文した。
赤貝を肴に絹江は十四代をお代わりした。そして、「正文君とはどんな感じ?なんか進展あった?」と絹江が聞いた。「何かあったら、ションベン横丁で飲んでいるはずないでしょ、今日この日に。」と、語気を強めつつ稀美が答えた。希美は、飲んでいる日本酒が辛口なことも手伝い、普段のペースより少し飲むピッチが速かった。
「もぉ、じれったい。最初からふたりっきりで、とかじゃなくて、ちゃんと友達も利用しなさいよ。稀美は肝心なところで変に意識しちゃうから、いつまでもそんな感じなのよ。」と希美を挑発するように言った。絹江もほんのり頬が赤らんできていた。「利用って?」と希美が聞いた。「だぁかぁらぁ、もー、私を出汁に使うとか、何だったら洋一だって協力してくれると思うよ。」と絹江が言った。「いろいろと私なりに、あの手この手で仕掛けているつもりではあるんだけどね、なんかに興味なさそう、たぶん。」と希美は言った。
絹江は早くも二杯目の日本酒を空けた。そして、カウンターの奥をぼんやり眺めながら、「私もそれください」と希美が飲んでいる日高見を頼んだ。仙台から海側に車で1時間ほど走ると石巻という町がある。日高見はそこが蔵元の酒だ。絹江は左ひじをカウンターにつき、半身の姿勢で希美に向き合い、「よしっ、この私が何とかしよう。」と言った。
「あんまりいろんな人巻き込まないでね。あなたの彼氏にまで迷惑かけるわけにいかないでしょ。ところで、洋一君は最近どうなの?」と希美が聞き返した。「ぜーんぜん進展なし」と絹江が答えた。先ほどまで奥で飲んでいた年配の男性はいつの間にか帰ってしまったようで、絹江と希美の二人だけしか客はいなかった。カウンター越しに二代目がいるだけで、他の客がいないことも手伝い、希美は大胆に椅子の上で胡坐をかいていた。椅子はカウンターに合わせて少し高めの造りで、脱いだ靴がその下で転がっていた。
「だめな男だな。10年どころじゃないでしょ。」と、希美が手を絹江の肩にかけながら言った。「ほんとよねぇ、だめなヤツ」とグラスの日本酒を見つめながら絹江がつぶやいた。「どうしてなの、問題なんて何もないじゃい?まさか、他に女がいるなんてことない?」と希美が憤慨したように言った。「そんなことじゃない。でもね、待つしかないんだ。」と絹江が言った。「うわっ、けなげな女。」と希美が茶化した。「うるさい」といった絹江が顔を真っ赤にして言った。
「だって、もし仕事の事で引っかかっているなら、ふたりで頑張れば何とかなるじゃない」と希美が言った。「務めていた事務所を辞めたってことは、この前伝えたでしょ。先輩と喧嘩したってことになっているけど、辞めたほんとの理由は別にあると思うんだ。でも、それ以上は何にも話してくれないの。」と絹江が言った。
「洋一君って長男で、彼のお父さんは物凄く頑固な人らしいよね。まさか、自分が選んだ女しか認めないっなんてこと、あるわけないよね。」と希美が言った。「なんだ、いろいろ話してるんじゃない、正文君と。」絹江が言った。「でもまさか、そんな理由じゃないよね。だとしたら時代錯誤も甚だしい。子供じゃあるまいし。」希美がしつこく聞いた。「あー見えて世の中で一番怖いのお父さんみたい。だけど、そのお父さんが原因なんて、そんなはずはないでしょ。」と絹江が笑った。「もー、わたしだったら絶対無理。そのまんまほっとかれて、しまいにはお婆ちゃんになってしまうなんて。」と、希美が大きな声を出した。
「私の事だろうな。」と絹江が小さく言った。「それは・・・」と、希美が言いかけたが、あとに言葉が続かなかった。
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