山川は髪の毛よりも細い鍼(はり)を、まさに寸分の狂いもなく患者の経穴に打ち込んだ。素人がやったら、刺さるどころか簡単に鍼は曲がってしまう。
利用する鍼は日本製、その細さは0.02ミリである。0.02ミリと言えば髪の毛よりも細い。材質は銀。ステンレス製を使う場合もあるが、銀製のほうが柔らかく皮膚に溶け込むように埋まっていくのだ。そう、鍼は刺すのではなく、自然に患者の皮下へ鍼が埋まっていくという表現のほうが相応しかった。
その鍼を躊躇なくツボに打つ。打ったように見えるが、患者の皮下にすっと埋まってゆく。左手でサッと患者の皮膚を撫でたかと思うと、その瞬間にツボを見極め、右手でスッと鍼を刺す。そして、表皮と真皮の境目、まさに薄皮一枚のところに鍼先が届く。それ以上深く差すことはない。
中国鍼の場合はミシン針のような太さの物を筋肉の奥深く、場合によっては骨に届くように打ち込む。深く打ち込み、按摩やマッサージでは届かなかった箇所を解すように刺激を与える。しかしながら山川の場合、刺激を与えることが鍼の目的ではなかった。また、マッサージの延長上に、彼の施術がある訳でもなかった。
日本にも江戸時代よりも更に古くへ遡る時代より、鍼による施術が存在した。最初は中国からその技術が伝わったのだが、それが時間と経験を重ねられるに従い日本流の繊細な鍼に変化してきたのであった。あまり知られてはいないのだが、その伝統的な施術は和鍼と呼ばれる。
経絡という生体を流れる気の通り道は、筋肉の中や骨の近くではなく、皮下の浅いところにある。そこに鍼を通し、滞った気の流れを円滑にする。簡単に言えばそれが和鍼の考え方であった。そのため、太い鍼による強い刺激は必要としない。必要としないというよりも、むしろそれをやった途端、経絡自体が歪み、気のバランスも崩れてしまう。
皮膚を五臓六腑とならぶ重要な臓器とみなすことは中国の医療にもあるが、そこへアプローチするという方法は日本において進化を遂げてきた。
「先生のところで鍼をやってもらうと、体の調子が見違えてよくなるんです。不思議ですよね。しかも即効性があるし。」と、朋子が施術用ベッドに横になってから山川に話してきた。「昔の人ってすごいと思わない?今みたいに医学が発達していなかった時代から、こうしたことが出来たんだよ。」と、山川が答えた。
目の前の患者が興味を持ってくれているが山川も嬉しかった。「経験の積み重ねってことでしょうか?」と朋子が更に聞いてきた。「このツボとこのツボへ同時に鍼を埋めると、こんな症状によく効きとかね。症状だけではなく、相手の体質や体調によってもツボを変えるんだよ。」と山川が言った。
「へー、不思議。でもそれが事実なっていうか、本当にそうなるのがもっと不思議です。」と朋子がうつ伏せに体位を変えながら言った。
「これは僕の勝手な解釈なんだけどね、交感神経や副交感神経のバランスを整えるような効果が大きいと思うんだよ。自律神経ってやつね。後女の患者さんにはホルモンバランスの調整ね。年齢によってエストロゲンとか、プロゲステロンとかの分泌って、女性に与える影響がとてもおおいいでしょ」と山川も話にだんだん夢中になってきた。
「じゃあ、生理痛とかにも効くんですが。」と朋子も興味津々で質問してきた。「もちろん、生理痛や周期の悩みもそうだし、30代後半からは更年期に向けた調整だって出来るんだよ。」と山川が説明した。
会話が進んでいるうちにも山川の手は休みなく動いた。そして、朋子の背中、後頭部、腰、ふくらはぎなどに、鍼が一定の向きで綺麗に立っていた。
「20分くらい横になっていてね。」と、山川が言った。朋子からすれば、鍼が刺されているといった感覚が無いまま施術が終わっていた。
朋子はこの鍼灸院に通いだして2年ほどになる。湯本からの紹介で山川の鍼灸院に通うようになったのだ。子供のころからのアレルギー持ちで、特に梅雨時や秋の台風が多くなる頃になると、体中痒くて我慢できなくなった。痒みだけではない。風邪をひいた時のような重いどんよりとした倦怠感や気持ちの落ち込みも伴う。
そうした一連の症状が、副交感神経の異常興奮からくるということがわからず、症状ごとに、皮膚科にいってはかゆみ止めのステロイドをもらい、心療内科で薬を処方してもらい、自分で考えられることは全てやってみた。でも、いくら病院を巡っても、病名すらつかない。不定愁訴という訳のわからないような病名を付けられ、何種類も薬を処方され、納得のいかないまま年月だけが過ぎたのだった。
鍼を打たれた直後はとても体が主怠くなることもある。でもそれは好転反応といって、体が自力で立ち直ろうとする場合に起こる症状ということだった。朋子はいつの間にか深く眠りに落ちていた。
しばらくして目が覚めた。とてもすっきりとしていた。2時間くらい寝ていた感覚だったが、体勢を変え壁にかかった時計を見たところ、先ほどから40分ほど経過していただけだった。背中などの鍼は既に抜かれていた。
「先生、うちの所長とはお友達ですよね。でも、全然違いますよね」と朋子が山川へ言った。「大体言いたいことはわかりますよ。エロおやじですからね、湯本は。」と山川が言った。
「先生はエロくないんですか?」朋子が言った。「やつと一緒にされたら商売あがったりですよ。こうして女性の患者相手に施術しなければならないのですからね。」と笑いながら山川が答えた。「そうですよね、施術着を身に着けているといっても鍼を刺すときは露出度高いでしょ。もし湯本さんが先生だったら危険すぎますね」と言いながら、朋子仰向けに体勢を変え、更に山川の施術を受け続けた。
そして「先生なら何でも許しちゃいますから、すぶっと鍼入れてくださいね。」と朋子は山川をからかうように言った。その瞬間、山川の手元が狂い、細い鍼が弓なりに曲がってしまった。
「痛いっ」と朋子が反射的に声を上げた。「あ、申し訳ない、痛かったよね」と山川が言った。「もー、先生もエッチ」と朋子がまたからかった。
「ところで、先生は平さんの試合見に行くんですか」と朋子が聞いた。「嫁さんと一緒に行く予定だったんだけどね。チケットも平からもらっていたし。」山川が言った。
「だけどねって?先生も行けなくなったのですか。」と朋子が聞いた。「お得意様の予約が入ったからね。でも、先生もって事は、もしかして湯本もいけなくなったの?」と山川が聞き返した。
「そうなんです。所長も行けなくなったみたいですよ。その試合の動画配信、うちのセンターでやるんです。それで、万が一の場合に備えて待機するんですって。」と朋子が話した。「そっか。仕方ないよ、仕事も大事だからね。」と山川が言いながら、施術を続けた。
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