2-5.私の役割

私とは脳が投影しているバーチャルな存在であると、これまでの章で説明してまいりました。

人間には自己意識というものがあります。他の生物と同様、仮に「私」という自己意識がないとしても、それなりに生命を維持することは可能なのかもしれません。

しかしながら、厳しい自然環境を長期にわたり生き延び、かつ広範囲に支配勢力を拡大するためには、何かしらの優位性が必要となります。他の動植物に淘汰されず、あるいは細菌やウイルスに種を脅かされないための手段として、自己の認識が有効であると脳が判断したのでしょう。

これが人間が進化する過程で獲得した、生存手段なのです。

条件反射から自我へ

人間以外の動物にも、情動というものを見出すことはできるかもしれません。不快と感じ威嚇する、または逃げるという反射は、身近にいる犬や猫などでも観察することができます。おいしい食べ物を目の前に出されると、過去の記憶を頼りによだれを流し、欲しがる動作も見せるでしょう。

でも、そうした行為に人格と同等の意識までを見つけることは出来ません。

人間にのみ発達した意識

人間には、他の動物にはみられない、自己意識という機能が備わっています。「私」という主人公を心のスクリーンに投影し、その私に内在する観念と、実際の行動を連結させます。もともとは反射的である行為に主体性を持たせ、観念による意味ある行動へと昇華させるのが、「私」の役割です。

人間でも、人間以外の動物でも、大好きな食べ物を目の前に出してもらえば、胃が活動し始め、ヨダレが流れてくるでしょう。これが条件反射と呼ばれるものですが、人間の場合には、それだけにとどまらず、より高度な思考や行動を行うことができます。

記憶として蓄えられた膨大で、複雑に絡み合う情報が引き出され、状況を判断したり、選択するなどの思考を巡らします。

脳による情報処理

目や耳、鼻、皮膚、舌などから入力される外部情報は、最初に海馬(カイバ)という脳の領域で処理されます。海馬では、この情報は快い、これは不快だといった単純な識別が行われます。「快」ならば欲しいという欲望が現れます。また、「不快」であれば恐れ、または怒りの感情が沸き上がります。

快や不快の情動が起点となり、過去の記憶データと感覚器からの入力情報の関連性から、欲や怒りなどの感情が引き出されます。

しかし、喜怒哀楽の感情だけでは、まだ人間らしい情報処理とは言い難く、ここで更に観念が必要となります。観念は感情と行為の間をとりもち、そこに意味付けを行います。なぜ怒るのか、なぜ欲しがるのかなど、感情の裏付けとなる意味を付加し、次に続く行為への理由付けを行うのです。

つまり、人間らしい行動とは、感情と行為に観念が加わることで成立するのです。そして、そこで必要となるのが観念の主人公たる「私」です。

私が介在することにより、さまざまな思考や行動が、観念をベースに発動されます。

「生活の糧を得るために働こう。」、「これが成功したら、焼き肉を腹いっぱい食べよう。」など競争に打ち勝ち食を満たすことも、「あなたを誰よりも幸せにします。」と異性に夢中になり子孫を残すことも、すべて観念に裏打ちされています。そして、そこには必ず「私」がいます。

私の正体

私の正体

唯一無二の「私」感が、プライドを保ち他者と異なる自分になろうとします。そして、単なる怒りや欲望にも「私」なりの意味を持たせ、それを実現させようとします。

人はみな個性的であり、一律ではありません。たまたま人並み以上の腕力をもって生まれたとか、視力や嗅覚に優れているとか、肉体の持つ優位性だけで生存しようとしても、人間以上の能力を持った動物が数多く存在します。

人間がなぜ、象より非力であっても、犬より嗅覚が劣っても、トラのように俊敏ではなくとも、地球において万物の霊長とまで呼ばれる存在になり得たのか。

それは、「私」という自己意識を獲得したからに他なりません。


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