心の底に堆積されてゆくカルマに行き着く先はあるのでしょうか?
人間の記憶は脳の死と同時に消えてなくなります。人は死ぬと仏になると、仏教では言われています。仏とは「ほとけ」と読みます。これは死ぬことですべてのカルマ(記憶)が「ほどける(解ける)」ことから、「ほとけ」と読むようになったと聞いたことがあります。
生涯蓄積され続け複雑に絡まったカルマも、仏になることで解けて無に帰すという仏教の考え方です。
自己意識からの解脱
記憶から解き放たれることで、迷いや欲、慢心、恨みなど人生で積もり続けた苦しみから解放されます。これが、自我からの解脱ということです。
支配していた観念が私から抜け落ち、溶けてなくなります。同時に「私」という自己意識は跡形もなく消えて無くなります。
因果が輪廻する
ひとりの人間の消滅は死をもって完結するのでしょうか。
「親の因果が子に報う」ということわざがあります。これは親の犯した罪や、親の持っていた思念が霊的に子供へと伝わるなどという事ではありません。
親が我が子にどのように接し育ててきたのか、その時の生活環境はどんな状態であったのか、などといった諸条件が子供の人生に影響を与えてしまうという意味です。
親と子の関係性から、親の持つカルマは子に伝播します。
強い怒りや暴力的な観念を親が持っていれば、ひとつ屋根の下で生活するなかで否応なく子供の精神に影響を与えてしまいます。
悲しいかな、子供は親から逃れることは出来ません。幼少であればあるほど、いかに辛くても、子供はそれを外へ発信することが困難です。必然的に親から受ける苦しみは子供を支配する観念として根付いてしまいます。
このような意味で、個人の観念は親から子へと垂直感染し、カルマとして輪廻することになるのです。
カルマの面的な感染
一方で社会的な諸条件が特定の観念を伝播させるケースもあります。
例えば都心に通勤するビジネスマンですが、通勤電車内は非常にストレスフルな環境です。乗車客が密着に近い状態で乗り込み、汗ばみ、咳をすれば飛沫が飛び、足を踏まれイライラしてしまうような精神状態に追い込まれます。そして、些細なことで溜まったストレスが怒りとなって破裂してしまいます。
ひとりの人間の怒りの暴発は周囲の人々へ伝播し、集団のなかで増幅します。体を自由に動かすゆとりもなく、電車が揺れるたびに隣の人と肩がぶつかり、女性は痴漢に怯え、男性はその冤罪を逃れるために無理をしてでも自分の手が周囲に見えるような体制をとらなければなりません。
運よく座ることが出来たとしても、耳元ではガムを嚙むクチュクチュとした音、スマホゲームをしている隣人の腕の振動、ヘッドホンの音漏れ、とてもとても居眠りすら出来ない状況です。
どこかで不意に誰かが怒鳴りだしたり、睨みあったり。これが日常の一コマだとすれば、温和な性格の人であっても、怒りや恨み、憎しみのカルマが日々積まれてしまいます。
全方位的なカルマの輪廻
親子間の垂直的な、または社会環境による水平方向からの双方が掛け合わされ、私たちの身の回りには全方位的なカルマの輪廻が存在しています。
観念の支配は個を超え、家庭、日常社会、更には国家レベルの集団思想にまで発展します。人の業とは恐ろしいものです。
群衆の持つ観念は人の深層心理に根深く刺さります。この呪縛を解くためには、政治よりも、道徳的な思想よりも、一個人レベルで自我をほどくしかないように思えます。
ひとりの人がカルマを仏き、自我を乗り越えることが大切に思えます。
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