5-4.本能の抵抗

カルマは世代間で垂直連鎖し、また集団の中で感情エネルギーとなり水平連鎖してしまいます。しかしながら、そうした現象も元をたどれば個人のもつ煩悩に帰依します。

ひとりひとりの感情や思考、行動などを支配している観念が落ち着きを取り戻し、平穏な心持を得ることが出来るなら、カルマの連鎖を断つこともできるでしょう。そして何より、自分自身が自然の流れの中で楽に生きることが可能となるでしょう。

執着する自我

観念による支配とは、煩悩への執着です。「私」という自我が煩悩に執着し、それ故、さらに増大してしまうカルマに苦しめられている状態です。

厄介なことに、苦しみを自覚できない「私」は、煩悩に刺激されるがまま振る舞い続けます。慢心や欲や怒り、迷いが、その時々の観念となり「私」を支配し続けます。

気づけないまま煩悩に囚われ、苦しみに執着し続けているのです。

苦しみからの解放

観念の支配から解き放たれた状況とは如何なるものなのでしょうか。それは苦しみからの解放に他ならず、平穏な心が保たれた状態です。

外部から、または自分自身の感情が刺激となり、記憶が引き出され、快または不快が判断され、それに続き感情が心を支配します。感情の支配は、その時々の状況に応じた観念へと変化し、最終的に思考や行動へとつながります。

観念の発動は瞬間的な事象であり、思いや考えにより意味が後付けされます。

こうした本能に基づく一連の仕組みが常に動作し続けている事を認識し、動作している様子を俯瞰できれば、観念の支配力は弱まります。

諸行無常

私たちを取り巻く物事は、現れてくる観念を含め、全てが唯々自然のまま、諸行無常、川の流れのごとくあるのだと、自ずから感じ取れることが大切です。

その感覚を得る練習を積むことで、観念の支配力は弱まり消滅してゆきます。

肉体に張り付いていた「私」という自我がサラリと抜け落ち、是非にあらず、諸々がその在りようのまま変化していることを実感できるようになります。

本能の抵抗

「私」という見せかけの存在を演出し、苦しみをもたらす観念。その観念を消し去ろうとして、現れ出る観念を否定すればする程、それを否定する「私」が出現します。脳の厄介な習性です。

「私」など実体のない虚像である、「観念」は脳による自動的な反応の産物にすぎないと言い聞かせてみたところで、言い聞かせようとする自分を見つけてしまいます。

私自身の存在が虚空なものであり、空を流れる雲のような自然と同等の感覚を得ることが出来たとしましょう。脳が作り出すフィクションを冷静に観察でき、落ち着いて心を俯瞰できているといった感覚を持てると、それと同時に得体のしれない恐怖感が襲ってくることがあります。

その恐怖感とは、他ならぬ自分自身の心です。

自我に囚われている間は気づくことの出来なかった心の深層、それが少し見えたとき、ある種の恐怖を感じます。

「私」が存在していた時には覆い隠され、自覚できずにいた、心の奥深くに巣食うカルマが膿のように流れ出てきます。ヘドロのような欲望や怒り、迷い、慢心が次々と出現します。

流れ出る苦しみ

「私」という存在を正当化することに対し、何ら疑いを持つことがなかった時には、無意識の中で観念を受け入れ、都合よく解釈していました。

カルマの膿が流れ出てくる以前も、苦しみは存在していました。苦しかったことに違いはなかったのですが、その苦しみを自覚できずにいたのです。

慢心、欲、怒り、迷いの煩悩に支配され、苦しみの業火に焼かれていても、「私」がそれに蓋をしてしまい、居座り続けていたのです。

ところが、その蓋が取り除かれ、心の底が見えてくると、これまで信じていた自分とは違う、ドロドロとした悪業に気づき恐怖してしまうのです。

見方を変えると、脳が生存本能を破壊されまいとして必死の抵抗をしているのかもしれません。「私」を手放すまいとしているのかもしれません。

選択

観念の支配に無自覚なまま苦しみ盲目的な生涯を終えるとしても、それはそれで選択肢のひとつです。

また、流れ出るカルマに一時的な恐怖を覚えたとしても、その先にある安穏とした自然に身をゆだねる道も存在します。「私」という虚像に気づき、自我に依存することなく、絶えず現れ出る観念は脳の自動反応に過ぎないと認識する選択です。

どちらを選ぶか、そこに是非はありません。

 

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