第3章では、自我という架空の存在を、脳が実体のごとく演出させる仕組みについて説明してまいりました。感情という刺激を絶えず動員し、自我という私をコントロールしようとします。
もちろん、感情とは動物としての本能に根差した機能ではありますが、それが現代を生きる私たちには副作用として強く作用してしまいます。生存本能として備わった心の働き以上に、副作用としての弊害の方が強く大きくなってしまっています。それがゆえに、人は煩悩に左右され、煩悩に苦しむのです。
さて、この章でご紹介する最後の煩悩は「迷い」です。
迷いとは
人は誰しも、日常の様々な場面で迷うことがあります。私たちは常に、選択を強いられ、そのたびに思い悩むものです。
迷いが生じるたびに、私たちは何かを必要としたり、何かを排除しようとします。
このような心の動きが、なぜ煩悩に分類されるのでしょうか。
迷いは「いま・ここ」という唯一の現実を見失わせるような苦しみをもたらします。心が過去や未来を彷徨います。過去の選択を悔いたり、将来に欲を出したり、迷うことで心が揺れ動きます。
過去も未来も、現実ではありません。
迷うことで、現実ではない世界を心が彷徨い「いま・ここ」を実感できなくなります。足元が宙に浮いたような状態ともいえます。
過去を後悔したり、思い出して腹を立てても、それはもはや過ぎ去ったことです。
こうありたいという未来と、現実との差を不安に思っても、嘆いても現実が変わる訳ではありません。
唯一の居場所
過去でも未来でもなく、「いま・ここ」の現在のだけ唯一の居場所ではないでしょうか。過去を後悔したり、未来を憂いても、その時空に手出しすることは不可能です。
過ぎ去った時間は、「いま・ここ」での行動によって補うしかありません。同様に、「いま・ここ」で考え、行動することでしか未来への不安を払しょくすることは出来ないでしょう。
唯一の居場所、唯一の道は「いま・ここ」にしかないのです。
迷うことは苦しみです
現実を見失い、苦しむのが迷いという煩悩の正体です。過去や未来という時間軸を意識できる人間であるが故の苦しみが迷いです。
そして、時間軸のみならず、言葉もまた人間を迷わせます。
人は言葉を使い、言葉により生きています。何事も言語化することで、認識しようとします。身の回りの出来事を全て言葉により意味づけし生きています。
言葉と迷いの関係
心には常に何かしらの観念が浮かんでは消えてなくなり、また浮かんできます。その観念によって、何となく不安を覚えたり、腹を立てたり、嬉しくなったりするものです。
特に不安や怒り、悲しみなどを強く感じるときなどは、何となく出やり過ごすことが出来ず、言葉により意味付けしようとするものです。
今なんとなく感じていることや、または目の前で起きている出来事を言葉で意味付けする行為は、過去の記憶がベースとなります。
今目の前で起きている出来事に対しても、何となく感じている不安のような感情に対しても、それを言語化するというのは過去の類型を当てはめようとする行為です。
言葉を使うことは過去に囚われるという事です。「いま・ここ」から心が離れ、過去を彷徨うのが言葉を使う意味となります。今を見ているつもりでも、実は過去の記憶が脳内で今のごとく変換されているのです。
現実のこの瞬間ではなく、過去に積んだ欲や怒りが引き戻され、それをリアルな状況と思い込み苦しんでしまうことは、日常に多く見受けられると思います。
少し大袈裟ではありますが、言葉もある意味現実を迷わす存在なのかもしれません。
迷いは様々な煩悩のスパイラル
迷いとは、慢心や欲、怒りを引きずり込み、渦のように撹拌して、その渦の中に「私」という自己意識を形成してしまいます。
ただ目の前にはリアルな現実があるだけなのに、そこに慢心・欲・怒りといった煩悩を絡ませ、心を苦しま専るのが迷いの本性です。
この章では、脳が自己認識するための刺激として煩悩と呼ばれる類の感情を利用しているといったことをお伝えしてまいりました。苦しみを感じさせることで、そこを抜け出し、生命を脅かすような困難な場面を乗り切ろうとする脳の戦略がそこにはあります。
もしかしたら、こうした苦しみのプログラムを認識することで、私たちは楽に生きるためのヒントを見出すことが出来るのかもしれません。
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