疑うことなく自覚していた、唯一無二の存在として信じていた、この「私」。
私の正体が見えてきた
「私」とは、肉体としての脳が自然界を生き抜くために、自己の存在感を具現化するための手段です。心というスクリーンに、「私」というイメージが投影されていたのです。生存のための反応を自己意識という虚像にまとめ上げ、肉体に精神を重ね合わせ、単なる生存反応を人間らしい行動へと昇華させていたのです。
そうした機能を主っている正体は、脳に他なりません。しかも、他の動物にはない、人間の脳だけが獲得した特殊な生存の手段が「私」です。
脳が演出するバーチャルリアリティ
あるのは、脳という肉体だけです。脳が演出するバーチャルリアリティが「私」なのです。
「私」という実態は存在しません。
脳を人格と捉えてもいいんじゃない?
「脳そのものを”私”と言ってしまえば、それまでじゃないか。」といった意見も出てきそうですね。でも、突き詰めて考えれば、その”私(脳)”も、自然の摂理や道理に従い動いている肉体であり、物質です。また、人間以外の動物にも脳はありますが、そこには「私」という主格は存在しないでしょう。
人間の脳にのみ見られる、「私」という存在は機能であり、言葉を置き換えれば観念です。
もし、「私」が実体であるとすれば、数コンマ1秒の瞬間に、反射的に現れる怒りや悲しみなどの感情にも、「私」が介在できるはずです。快・不快の情動、喜怒哀楽の感情、観念や思念が湧き出る瞬間に、「私」が介在できているでしょうか。
ほんの一瞬の間に、「私」が感情や観念をコントロールできているのであれば、怒ることもなく、恐れることもないはずです。「私」の与り知らぬところで、勝手に脳が反射反応しているにすぎません。
実は知られていたこと
紀元前三千年の昔、「無為自然・万物斉同」を語った荘子にも、無我の宗教観念を説いた禅にも共通しているのが、「私は存在しない、あるのは諸行無常の時の流れだけ」という摂理です。
大きく言えば宇宙、身近な言葉であれば自然。人間の肉体もこれらのなかで、同様に存在しているだけです。
そこには苦しみも、悲しみも、喜びも何もなく、ただ風が吹き、日が昇り、日が沈むだけのことなのです。