古びた、少し重い扉が鈍い音を立てた。ニスが剥げ落ち、いい塩梅に光沢の抜けた薄茶色の木枠が闇を和らげている。廊下は薄暗く、ほんの数歩先から裸電球のような明かりが漏れている。
ウッドベースの響きに似た波動が溢れ出て僕を閉じ込めてしまう。奥へと目をやると、ぼんやりとした赤暗い空気が僕を数歩先へと導いてくれた。重厚で伸びのある圧が空間ごと包み込んできた。
扉から続く通路には少し奥行きがあった。通路なのか正しいことはわからなかったが、周囲の暗さがそう感じさせたのかもしれない。突き当りから左側にカウンターが延びている。黄色っぽくぼんやりと照らされたターンテーブルが目に入った。さほど幅のない天板にはコーヒー用のサイフォンや酒瓶も適当に並んでいる。
足の長い椅子がカウンターに沿っていくつか並び、それを背にしたところにはテーブルセットが4つほど低く置かれていた。テーブルが置かれているスペースは木製の格子で扉からの通路と隔てられていた。
僕は格子を背したソファーへ座ってみた。ソファーの表面を覆うビニールは固くひび割れていて、何気なく片手をついたところの亀裂からはスポンジがはみ出ていた。テープで雑に補修されている部分もある。
不意に水の入ったコップがテーブルに置かれた。
それまで誰の気配も感じなかったのが視線を上にやると丸い銀色の盆を持った男が立っていた。もしかしたら既に声をかけられていたのかもしれない。
とっさに「ウィスキー」と僕は言った。音にかき消されたかと思ったが、男は「はい」と口を動かした。そして、テーブルに置かれた黄色がかったメニュを愛想なくカウンターの奥に持ち去って行った。
僕はコップの水に軽く口をつけてから正面を見た。背丈よりも少し大きなスピーカーがふたつ並んでいる。スピーカーが空間にうまく溶け込み、サイズの割には威圧感を感じなかった。ふたつのスピーカーの間に“ALTEC”書かれた銘盤が飾られていた。そこも黄色く照らされていた。右のスピーカーとカウンターの間には木製の譜面立てがある。左横に目をやると壁面に沿って同じようなソファーが横たわり、テーブルが配置されている。
何をする訳でもなく僕は腕時計に目をやった。0時をまわっていた。僕のほかに客はいないようだ。カウンターの向こう側では、オーダーを取りに来てくれた男がグラスに大きな氷をひとつ入れウイスキーを注いでいた。銘柄を尋ねられた訳でもなく、僕としてもオンザロックと告げたわけでもなかった。
スピーカー脇の譜面立てには一枚のレコードジャケットが置かれている。そして“A”と書かれた縦横10センチ程度の正方形の札が銀色のチェーンでぶら譜面たての左肩にぶら下がっていた。譜面たてにあるレコードのA面が演奏されているのだろうと僕は思った。
タイトルを読み取ることは出来なかったが、レコードジャケットには楽器の弦を弾く指が描かれているのがわかった。写真かもしれないし絵なのかもしれないと考えながら、僕は譜面たてのある一角をながめていた。
カウンター右奥のターンテーブルとレコードジャケットの置かれた一角だけが黄色く灯り、それ以外ぼんやりと闇に満たされていた。
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