実際のところ、僕の精神は自分自身で自覚できるほど安らかになってきていた。明るい気持ちになってきていると実感できるし、過去に経験したことの内容な幸福感に満たされることもしばしば感じる。
「実際に脳が健康のなると、体もものすごく楽になっていうのが経験できてきたんだ。」
「素敵な薬ね。幸福感で満たしてくれるなら、私も飲んでみたいわ。」
「僕もそう思う。一生とトリンテリックスを飲み続けていたい。セロトニンで脳を満たし続けたい。」
「それじゃあ、いまは体調もとてもいいってことなのね。」
「うん、とても調子がいいよ。体調不良なんて無縁と思えるくらい。」、
僕の性欲は間違いなく旺盛になっていた。もちろん10代の頃のように大量に射精することはできないが、女の子を見ると首筋や胸やサラサラとした髪にとても引き付けられる。
「妻とのセックスはそれが影響しているということで間違いないと思う。」
「奥様はどんな反応だったの?」
「最初は妻は僕の求めに驚いて、求めには応じようとしなかった。まあ、当然かもしれない。」
「それで?」
なんどかそのようなやり取りをすることが続いたあとで、僕は妻を抱くことができまた。
「それは過去に奥様との間であった、あるいはあなた自身が経験してきたセックスと同じよなものだった?」
僕はその時の様子を思い出そうとしてみた。妻のパジャマのボタンを外し乳首を舐め、ゆっくりと背中をさすりキスをしていると、妻の方も穏やかに反応してくれました。
「同じ部分もあったし、違うと感じた部分もあった。」僕は妻に挿入することも射精も、それほど必要だと感じなかったのだ。そのことを朋子との会話の中ではっきりと自覚した。
「ただ体を合わせ、妻の声をきき、愛撫するだけで満足することができた。」
「よくわからないわ。そんな風に抱かれたいと思うことって自然だと思えるけど。」と朋子はいった。
「確かにそうかもしれない。」
「そうよ、オーガズムだけが最終目的とは限らないわ。」
「僕はそんなふうに思ったことがなかったんだ。」そのとき、妻を抱いたとき僕はなだらかに、ゆっくりと底の方から訪れる性的な深みを感じ続けていたかった。と僕は朋子に話した。
「セックスとしてだけではなくて、僕に必要だったのはこの実感だと思えたんだ。とても自然に。」
「あなたは奥様を愛してあげることができたのね。」
「きっとそういうことだと思う。」
それは穏やかに僕の脳をセロトニンで満たし、ベッドの中だけのことではなく、日常を支配するようにさえなってきた。
「僕は何処かを歩いているときも、電車で座っていても、穏やかな性感につつまれ、幸福感に満たされ、何も考えずにいることが多くなってきたんだ。何かを実現するとか、目標を達成するとか、そんな自己啓発的なことはどうでもよく、ただそこに存在することが僕にとって必要なことだと。」
「あなたの治療がいつか終わるときがくるけど、怖くない?」
「君の言うとおりだ。たしかに僕はどうしてもこの幸福感を手放したくない。どうしたらいいんだろう。」
「あなたの意識とか体が望むように方向づけられさえすればいいのかもしれないわ。だって、薬を飲まなくても幸せな人たちは世界中にたくさんいるのだし。」
「うん。」
「でもどうして奥様とのことを私にはなしてくれたの?」と朋子は言った。
「わからない。でも、君に聞いてほしいと思った、なんとなく。」と僕は言った。
朋子は何も言わず僕の指先を見つめていた。そしてそっと僕の指に自分の手のひらを重ねた。
「羨ましいわ。」
「でも、そんなつもりで、つまり打算があって君に話した訳じゃないんだ。」
「わかっている。そんな手口に乗せられるわけないじゃない。」と朋子は言った。「でもあなたより10歳も若いのよ。」
「つまり、」と言いかけて僕はことばを詰まらせてしまった。
そのあと僕と朋子はウォッカトニックを2杯ずつ飲んで店を出た。
「君の部屋まで送るよ。」といってタクシーを拾い阿佐ヶ谷にある彼女のマンションに向かった。タクシーの後部座席で彼女は僕の左肩に軽くもたれかかり、彼女の手は僕の左ももにそっと添えられていた。さらさらした彼女の髪が僕のほほをくすぐった。
マンションの前まで来たとき「コーヒーでも淹れましょうか?」と彼女が言ってくれたが、僕はもう少し飲みたいからと答えた。そして、僕の太ももに置かれた彼女の手をそっと握り、タクシーを降り、彼女を玄関先まで送り届けた。
タクシーを待たせていたので、「新宿まで行ってください」と言った。
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