壁にかかった丸い時計を見ると9時少し過ぎだった。僕はサンドイッチとコーヒーの礼を朋子につたえ彼女のマンションを後にした。別れ際にまた会いたいと僕は言った。朋子は素直に僕を見て玄関を開ける前に軽くキスをしてくれた。
マンションから最寄り駅までは10分ほどで、大きな歩道と車道の間には等間隔で桜の木が植えられていた。桜の花はすでに散っていたが、伸び始めた新緑の芽が心地よい風に吹かれていた。
何気なく上着のポケットに手をやると黒字に白い文字で『COUNT』と書かれたブックマッチに気が付いた。たばこは吸わないが、初めて入った店ではマッチをもらうことがよくあった。
次の週の火曜日、仕事帰りに新宿駅で降りてみた。腕時計に目をやると夕方の7時をすこし過ぎたくらいだった。この季節は19時が夕方なのか夜なのかなんとも言えないが、やっと空は薄昏から闇の入り口に入り込もうとしていた。僕は駅の喧騒を離れ、特に方向を定めずにあるいた。歩いているうちに街明かりが夜に馴染んできた。
僕は先週の金曜日、タクシーを降りて迷い込んだ、あの路地を探していた。つじつまが合うとか、合わないではなく、直観として路地もあの店も現実のものだったはずだという感覚があった。根拠はない。
路地に迷い込んでしまう前に、僕は公園のベンチに座り、無風のなかじっと揺れるのを我慢しているようなブランコを眺めていたのだ。それは先週の金曜日に僕がいた公園だったとも思えるし、20年も30年も前の記憶が映像として浮かんできただけのものにも感じられた。
心療内科の薬を服用するようになってから、ためらいもなく脳の抽斗が開いて闇に葬られたはずの記憶がなんの前触れもなく浮かんでくる。そんな自分のなかの感覚に、僕はなぜか行為を持つことができる。過去に存在した確かな現実が再び僕を訪ねてくる。
公園も路地も、あの店もかつて、どのくらいの過去にさかのぼるかまではわからないが、僕が実際に経験したことなのだ。それがイメージとして蘇り、イメージの世界を現実のように彷徨ったのだろうか。
それとも、あれは選手の金曜日の現実だったのだろうか。いずれにしても、どれだけさかのぼった過去なのかは別として、僕の現実の記憶なのだろう。
でも可能性としては、記憶された情報が適当につなぎ合わさったということも否定できない。過去の経験がよみがえったのではないかもしれない。
僕が抱いている実感が何かに裏付けられているという証拠はどこにもないからだ。僕の脳が記憶の断片を自由気ままにつなぎ合わせ、散歩でもするように気ままに様々な景色を紡いでいるのかもしれない。
もしそうだとしても、薬の効果として、しこりのように固まった脳を開放してくれているのだ。それならそれでしかたないと僕は思う
もしそうだとしても、僕はそのよな自分の脳に好感をもっている。そして、それと同時に僕の中にある実感も大切にしたい。根拠のない感覚だけの実感を否定したくはなかった。
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