「満員電車で足を踏まれたが、相手が誤りもしなかったので、ついカッとなり足を踏み返した。」など、ストレスフルな日常生活のなかでは、ありがちな話です。
もしかしたら、足を踏まれる直前までは、「今日のランチ、どの店にしようか?誰と行こうか?」などといったことを考えていたかもしれません。
同じ人間でも、このように全く正反対の感情に支配され、その時々で異なる観念を抱いています。まさに、「私」という自己意識は、自動反応しているに過ぎないということを伺える、一例かと思われます。
さて、自分自身が自覚している「私」とは、いったい何者なのでしょうか。怒りに駆られている状態が、私の本性なのでしょうか。それとも、ランチの事に思いを巡らせているときの私が、自分なのでしょうか?
観念は駆け巡る
私たちの頭のなか、心のなかには、さまざまな感情や思い、考えなどの観念が、絶えず駆け巡っています。普段、私たちはこのような観念を、自分自身のものであると信じ、疑うことはないでしょう。
観念は自己意識そのものであり、私を自覚する本性に他ならないというのが、一般的な認識かと思われます。
私たちは常に、何かしらの感情に支配され、浮かんでは消え続ける観念が、頭の中を駆け回っています。徒然なるがままの思いが、心のなかを流れています。
私の主人公は他ならぬ「私」自身であり、心身を統制している支配者が「私」であるならば、なぜ徒然なるがまま、雑多な観念が行きかうのでしょうか?勝手気ままに浮かび出るものがあるのに、それを私の本性と呼ぶことができるのでしょうか。さらに言えば、ほぼほぼ全てにおいて、自分自身がコントロールできている観念など、存在しないのではないでしょうか。
「いま、ここ」に集中するとき
もちろん、数学の問題を解いているとき、読書感想文を書いているときなどは、それを行っているのは自分自身だと、明確に自覚できます。
「いま、ここ」に集中しているときこそ、観念に流されず、自分自身が数式を解いている、読書をしていると自覚できる、唯一の状態です。
苦しみも、悲しみも感じることなく、平常心という最も楽な状態でいることができるのは、「いま、ここ」、目の前のことに集中して打ち込んでいるときです。
観念の発生について
しかしながら、私たちは人生の大半を観念に支配されています。感情や思い、漠然とした思考を観念と呼ぶとすれば、私たちは日常のほとんどすべてを、観念に流され生活しています。
その観念の発信源は、ほかならぬ私たちの脳です。脳は生命の存続を第一の目的として活動しています。それが、脳に備わった根源的な性質であり、生存本能と呼ばれています。
その生命存続の主体者と呼べる、脳が発信する観念とは、いかなる役割を担っているのでしょうか。
観念というものは、生まれながらに備わっているわけではありません。生まれたばかりの、一切の知識も経験も持ち合わせない赤ちゃんには、怒りも悲しみも、慢心も、迷いも、何もありません。お母さんの声を聴き、外界の光を感じ、身の回りの匂いを嗅ぎ、少しずつ自分自身を取り囲む情報を吸収していきます。
情報が取り込まれていく過程で、脳細胞は神経ネットワークを構築し、発達し続けます。外界から得た情報は、記憶のなかにひとつずつ格納されます。
そして、更に成長を続けるに従い、自我が芽生えます。自己意識が構築されるのです。このときになり、初めて「私」が登場します。
「私」という存在
何もない状態から「私」が生まれたのですが、もとを辿れば「私」とは、脳細胞という物質です。物質という表現がふさわしくないとすれば、有機体です。
その有機体が、個体としての命と、種の存続を目的としていることは言うまでもないでしょう。そして、目的を達成するための手段として、「私」という道具を利用しているのです。
人間を含め、すべての動物にも命があります。そして、その命を守り、子孫を残そうとする生存本能は、人間にも、犬にも、猫にも備わっています。しかしながら、唯一人間のみが獲得した生存のための機能が、「私」という自己意識なのです。
そして、この自己意識には、実体がないだけに、常に刺激が必要となります。
「私」といってみたところで、それに触れることは出来ません。自分自身の顔に手を添えると、確かにそこには私の顔を確認することができますが、それ自体が私という訳ではありません。
「私」とは心に投影されたフィクションといえます。「私」という意識を登場させることで、自分と相手、そして第三者を認識することができるようになります。このことで、人間はより高度な社会生活を営み、文明を発達させることに成功できたのです。地球環境のなかで、他の種を圧倒し、人類の繁栄を獲得してきたのです。
また、「私」という自己認識は、物事を主体的に考えるために必要ともなります。単に本能に従い、食べたり、寝たりするだけではなく、創造的な活動や、文明の発展に大いに寄与してきました。もちろん、それに伴い、プライド、慢心などの感情も芽生えます。それは、プラスに働くだけではなく、マイナスに作用することもあります(「私」の副作用的な影響については、別途ご説明します)。
観念の役割
生きている限り、「私」は存続します。生きることにおいて、「私」は、主体としての役柄を演じ続けるのです。そして、実体の伴わない「私」を演出し続けるためには、常に刺激が必要となります。
その刺激が観念です。「私」としての実感を維持させるために、観念という刺激が、絶えず「私」に働きかけるのです。脳は「私」という存在感を演出するために、観念を発現させ続けているのです。
何も心に思い浮かべないようにしようとしても、何かしらの観念が「私」から離れないのは、このためです。
それでは、脳は観念を利用することで、どのように存続してきたのでしょうか。また、「私」という存在と観念との関連性は、具体的にどうなっているのでしょうか。
次の章からは、こうしたさらなる疑問を解き明かすことで、観念の必要性や弊害について、深堀していきたいと思います。