物事が諸行無常、自然のままに変化を続けるのと同様、人もまた自然の流れのままに移り変わるものなのでしょうか。
月は地球の重力に導かれ、その地球は太陽を中心に公転しています。人体は寿命という定めの中で生命を永らえ、自らの種を存続させるため本能に応じた行動を続けます。
人も銀河の彼方で輝いている星々と同様に、自然の法則で成り立っているのでしょうか。
無限の組み合わせ
宇宙の星々も動植物も、分子や原子、素粒子の無限の組み合わせが奇跡的に作り上げた存在です。そして、それらすべては皆、自然という大きな存在に包含され、その営みに沿って動いています。
生存本能
人間は生命維持という本能により機能しています。命を保つために食べ物を得たり、睡眠をとったり、また身に迫った危機を回避するための闘争や逃避行動に臨むこともあります。
差し迫った危機を回避するためには、体が動くより一瞬間前に怒りの感情が働きます。また、単独では自身を守れないような危機的状況を経験し続けた結果、人は集団で生き延びる知恵も身に着けてきました。
しかし、その集団の中でも競争や闘争が繰り返され、そこでの優位性を保つためにプライド、慢心といった感情が発達します。
怒りも慢心も行動を起こすための感情エネルギーです。感情という力をバネにして人は行動を起こします。
感情があるからには、そこに自己意識が芽生えるのは自然な流れだと思われます。自己意識を形成し、観念による意識付けを行い、「私」という主人公を作り出す、それが本能のなせる業です。
頂点に君臨する脳
人がもつ一連の反応を統制している元締めといえば、他ならぬ脳という事になります。脳は心臓や肺など、人体を構成する臓器を制御し、また一方では自己意識、感情、観念をコントロールしつつ、生きるっために考えたり行動したりします。
誰でも知っている当たり前のことですよね。
しかしながら、その当たり前の仕組みが、実は私たちに苦しみを与えているということには、ほとんど誰も気づいていません。苦悩は身の回りの出来事によりもたらされると思ってはいませんか?外部の出来事は、苦悩を発火させる引き金に過ぎません。
人が背負っている業
人間は他の生物と同じように、自然環境の中で生き永らえてきました。そして、一方では動植物とは異なり、「私」という特殊な機能を獲得し、そこに生じる意識を高度に発展させつつ進化してきました。
植物は花を咲かせ、蝶は花々の間を飛び交い、それぞれが自然環境との調和を図りながら生きています。それに対して、なぜか人間という動物は、宿主である地球環境の破壊をいとわず、自然に背いた行動をしてしまいます。
これはもしかしたら、他の生き物との最も大きな違いである自我とか自己意識が、そうさせているのかもしれません。
自我
植物も昆虫も、鳥や猫や犬にも自我と呼ばれる自己意識はありません。人間以外の動植物にとっては、自然そのものが自我であり、自己意識なのだと思われます。
人以外の生物には「私」がいない代わりに、それに該当する対象が自然の法則である、といえるのかもしれません。
人間の場合は、脳内スクリーンに「私」という像を投影させ、そこにプライドや怒り、悲しみ、喜びなどの刺激を絶えず与えることで実像のような錯覚を絵描き続けています。
脳にとっての「私」は独立した唯一無二の存在です。それは自然や宇宙などの全体と分け隔てられています。人間は自己の外側に広がる世界を大局的に捉えることが苦手なのでしょう。
もし観念を主るものが地球環境であるのなら、”自ずから”自然の法則に沿った生命の営みがなされるのかかもしれません。でも人間の本能は、進化の過程で自然との調和を選択しませんでした。人は全体との調和を優先させることよりも、そこから独立した「私」を得ることで支配力を得てきました。
結果的に俯瞰的な視野を持ち合わす能力が発達せず、脳が演出した小さな存在に過ぎない「私」は、狭小な視野でしか物事を捉えることが出来ない存在になってしまいました。
「私」という自覚が主体となったことで、「私」の感情が判断基準の中心となる傾向が強くなります。主体が内向きで、自然の営みと歩調を合わすこと事ができないのが人間です。
もちろん、大局的で長期的な視野をもって物事を考えることの出来る人は存在します。しかし、人間全体としては、「私」の欲や慢心に囚われている状況が現実です。都度発生する煩悩に振り回されているのが「私たち」の姿です。
宿主を破壊してしまう事に気づけないまま生存しようとする営みは、エイズウイルスと同じですね。
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