震災から2度目の春に、山川の山小屋に湯本がふと訪ねてきた。麓の駅まで来たてから、山川へ連絡が来た。
「急で申し訳ないけど遊びに来たよ」と、電話口の向こうで湯本が大きめの声で話した。
「おおー、湯本か。車か?」と山川が聞いた。
「まだ雪残ってるし、俺の車じゃ無理だから電車で来た。今駅にいるよ」と湯本が言った。
「わかった、少し待てるか」といって山川が電話を切った。
山川はそのままランドクルーザー70のディーゼルエンジンに火を入れ、林道を駅に向かって下って行った。
「これ、出張に行ったときに買ってきた。飲もうぜ」と三重の地酒を板敷の床に置いた。
「而今か」といい山川はニヤッとほほ笑んだ。山形の十四代に似た口当たりで、米の味を上手に生かしたような旨味がある。
「ただ、今と書いて而今」と湯本も答えた。
「なんか食わせろよ」と言いながら、着いた早々に湯本が一升瓶の而今を開けた。
山川は土間に下りてゴソゴソとやっていたかと思うと、「これでいいか」と言いながら、黒く蛇のような岩魚と、山女魚を一匹ずつ持ってきた。山女魚はまだ小ぶりだが鮮やかなパーマークが入っていた。
2匹の魚それぞれに串を入れ、遠火になるよう炭から離れたところに灰のなかへ、その串を深めに差し込んだ。
「焼けるのに少しかかるから」といって、ちょうど塩抜きしていた保存食用のシドケやコゴミをざく切りにして湯本の前に置いた。
「どれ」と言いながら湯本は出された山菜を口にしてみた。「うめーな。塩気と苦みがあって」といい、続けて蕎麦猪口から而今をゴクッと体に流し込んだ。
「どう猛な顔している、こいつ」焼き枯れした岩名に頭から喰らいつきながら湯本がいった。
「養殖とは違うから、顔もそうだけど尾びれなんかも急流仕様でとんがってるんだぜ」と山川が言った。顔つきやひれだけではない。渓流の魚は上流に行くほど、体の色や形が、住んでいる自然環境によって違ってくる。
山川の釣った岩名は蛇のような体になることで、その渓相に合わせ上手く変化している。岩の間をちょろちょろとした流れのなかで蛇のようにくねくてと移動するのであろう。なぜ黒なのかは山川にも分からなかったが、確かに別の山で釣れるものとも色や形が違っていた。
秋に下流で釣ったヤマメのはく製を指さして山川が言った。「あんな風に下あごが発達するのは強い雄だけらしいぞ。」
「あいつ、女にもてたんだろうな」と湯本が言った。
「『もちまえ』っていうのかな、そいつなりに生きてるんだろうけど、人間みたいに意識していないのがまたいいところだな。」と山川が言った。
「なんだよ、それ?」
「魚には魚、鳥には鳥のもちまえってのがあるんあよ。山自体にもある。自然に従い素直に生きているだろ。人間だけだぜ、そんなこともわからず、いろんなことに期待しすぎるのは」
「便利な世の中になっているんだけどな」
「やりすぎなんだよ。お前の自慢のデータセンターだって電力大量消費の権化じゃねーか」
「便利って苦しみと裏腹なのだ、ははは。」
「ばーか、苦しんでどうする。下手に知恵なんか持って、苦しんだり、怒ったり、迷ったり、不安になったりしてないか」
「お前はどうなんだよ、悟りでも開いたのか?こんな山の中に住んで。批判ばっかしていても、浮世離れの自己主張って言われかねないぜ」
「まーな、こんな風に言葉にしちゃうと、そう言われてしまうよな。でもな、なんとなく思うんだ。この山も地球もクローズドネットワークじゃないか。いつかほかの星にでも移住できれば話は別だけど。」
「目先は刺激いっぱいで楽しいかもしれないけど、滅亡まっしぐらってことだな」
「こんかいの大震災でもパラダイム転換できなかったのは政治のせいじゃなく、ひとりひとりの心の問題だと思うんだ」
「酔っぱらってるんだろ、話がくどいよ」
「酔っぱらいって言えば、洋一かなり酒浸りらしいぜ、ここ1年くらい」と湯本が話題を変えた。
「あいつの場合、言っても話聞かないからな。俺の事に口出すなって」と山川がいった。
「それもあるけど、うつなんじゃないか?メールしても返事ないし、電話しても出てくれない。昼からの飲んでるってしってた?」と湯本がいった
「誰が言ってるんだよ、そんなこと」と山川が聞いた。
「いや、誰か言ってた。気がする。そんな精神状態ならそっとしておくほうがいいかもしれないよな」と湯本が言った。
「話聞かないからな。頑固っていうか、執着が強いから。苦しいだろうな。」と山川が言った。「お前はお前で、欲の皮突っ張らせて将来に不安になってるし」と更に付け加えた。
片手で苦も無く持てるほどになった酒瓶を山川に差し出しながら、ぼんやりと思った。(先のことなんて確かに勝手な思い込みにすぎないよな)
「なあ、近いうちにこっちに来いよ。こんな山深くとは言わないが、麓の里山なんていいところだぞ。家族で暮らすにはもってこいだから。温泉もあるし、みんなもきっと気に入ると思う」と山川がいいながら大きなあくびをした。
「悠々自適ってやつか。ほんと憧れるよ」と、湯本は表面が白く落ち着いた囲炉裏の炭を火鉢で転がしながら、更に付け加えた。「洋一も誘ってな、そうなれれば洋一も元気になるかな」
「そうそう、お前の不安も洋一の抱えている恐怖もな、遊びがないからだよ。気づけよ。」山川は久しぶりに人と会い、しかも昔からの友人と酒を酌み交わしているうちに多弁になっていた。「いろんなことに縛られて、何にも理解できないまま流されて執着して、その挙句自分が苦しんでいることにも気づけないなんて。」
朝、というにはまだ暗い時刻に山川は小屋を出た。4月とはいえ、朝の空気に頬や耳の当たりが締め付けられた。都会であればサクラもほころび春の気配満点といった時期ではあったが東北の山腹はまだ厳しい朝の寒さが身を刺すようであった。
昔、山川が住み込むにより前には使われてたであろう、けもの道はまだ雪も残り、川には雪しろが流れ込んでくる季節である。
昨夜、日本酒をたらふく飲んだせいもあり、湯本はまだ囲炉裏端で折り曲げた腕を枕に大いびきをかいており、山川が小屋をでるのを気づく様子もなかった。
あたりは薄らと明んできたが、谷に降りるに従いまた暗くなる。この時間のうちに渓流の流れる近くまでたどり着く事が出来れば、ちょうど朝間詰めに間に合う。
山川は自身の存在を忘れたように、恍惚とした表情で竿を垂れていた。
何も思わず、何も記憶に留めず、ただ流れる川のように心が流れていた
自然のなかで、自己を切り出すことなく、只水の流れのように完全なる受け身であった。
同時にそこには活き活きとしたエネルギーが巡っている風でもあった。
そこに少しでも意思というものが入れば、清廉な水に濁りが生じると思えるような姿だ。岩陰に潜んでいた山女魚が、瀬の淵を流されてきた疑似餌をつつき、竿先に当たりが感じられた。無為に任せるその姿には完全なる主体性が存在した。
魚も、そこここに芽吹いている木の目だって、みなそれぞれのあり様に従い、自然の営みから外れることなく生きている。人間のような“はからい”がそこには存在せず、みな必然のまま、ありのままの運命を受け入れているかのようであった。
山川の意識の上に、昨夜の湯本との語らいの断片断片が浮かんでは消えていった。(人だけが、まるで試練を与えられたかのように感情に支配され、怒り、悲しみ、おそれ、欲に駆られている)川の音がそう囁いているようだった。
風が吹き、谷間にも朝日が昇り、そうした周囲の働きかけに応じ、山川は然りと立ち上がった。無為の自然に身を任せ、是も非もなく自ずから(おのずから)歩き始めた。
山川が小屋に戻ると、湯本が身支度をしていた。「どうするんだよ」と山川が聞いた。「今日もなんだかんだと仕事もあるし、そろそろ戻るよ。始発に乗りたいから駅まで乗せてってくれ」と湯本が頼んだ。
ウェーダーという渓流釣り用のゴム長にフィッシングベストの出で立ちのままで、山川がランドクルーザー70に乗り込んだ。麓の町の中古車屋で見つけた20年以上前の車だったが、分厚い鉄板が多少さびている程度でまだまだ十分に乗ることができた。イグニションを回した瞬間、ディーゼルの太いトルクがブルンと車体を震わした。
日も明けきらぬ中、林道を下りながら助手席の湯本が聞いた。「いるまでこうしているつもりだ。」それに対し「本当は里山とか小さな規模で共同生活できる仲間がいればちょうど良いと思うけどな。とりあえず、今は俺一人だ。」と山川が答えた。「偏屈な爺さんがひとりであそのこ山小屋にいるなんて噂されるのがオチだろう。」と湯本が茶化した。
「もう少しすれば、また取れるから、山菜。取れたてのやつを食わすから、その頃また来いよ。」と言った山川の横顔は静かに落ち着いていた。
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