山川は純との電話からそれほど日が経たない内に仙台に戻っていた。もともと、山川の育った桜ヶ丘の家は、年老いた母親が一人で暮らしていたので、娘2人と妻を連れ帰っても不自由なく暮らせる広さだった。
実家は父親が元気だったころ花屋を営んでいた為、それを再開するつもりだった。最初は細々とした経営になるかもしれなかったが、それでも路頭に迷わずに済んだ。
「大丈夫よ、昔お父さんと頑張ったこの店をまた開けれるなら、こんなに売れ吸う事無いわよ」と山川の母親が、帰ってきた山川一家を励ますように話していた。
「仕入れのルートとか、お母さん教えてくださいね」と妻の貴子が聞いた。
「お父さんと毎朝市場に言っていたから何とかなるわ。貴ちゃん、車運転できたよね。私、免許持っていないからよろしくね」と山川の母親が笑顔で言った。
「私の地元でもあるし、続けていければお客さんもいずれは何とかなりそう」と貴子も楽天的に果たした。
「幸男君もフラワーアレンジメントとか覚えてね。お花を売るだけでなく、店の2階で教室も開ければいいな」と貴子が、黙って聞いていた山川を促すように話した。
ちょうど、山の雪解けも始まり、ゆきしろという雪がとけたものが川に流れ込む時期だった。このゆきしろがある程度落ち着き川の水温が上がり始めたころ、渓流にすむ岩魚や山女魚といった魚たちも活性化してくる。
山川は花屋の店舗を閉めた後、仮眠をとり深夜2時や3時頃に外出していた。そして、毎日10時前の店の開店時間には戻り黙々と仕事をしていた。花の市場は魚などのそれとは異なり、それほど朝早くから仕入れに行く必要はなかった。2人の娘も16歳と20歳で手がかからない年頃だったものあり、朝の火事を手際よくこなし、貴子が毎日市場に仕入れに行った。
店は存外に軌道に乗り、山川はそれをいいことに、毎朝渓流刷りに明け暮れていたのだった。まだ暗いうちに出発し、薄っすらと空が白み始める頃までに目的の川にたどり着き、自作の毛バリやミノーなどの疑似餌をキャスティングする。もともと、自然の中で遊ぶのが子供のころから好きで、学生時代にもこうした渓流刷りに夢中になった時期があり、趣味とは言ってもかなりの域に到達していた。
関東近郊であれば魚の数より人の方が多いような環境である場合が多いのだが、やはり東北のフィールドは素晴らしいと、山川は一人楽しんでいた。
ただし、車を降りて沢にたどり着くまでには、険しい道が殆どであった。崖を恐る恐るゆっくりと下り谷底に降りてみたり、オーバーハング気味の岩を乗り越え上流に移動するなど、万が一足を滑らせ怪我でもしたら一人では帰れなくなる可能性もあった。
まして、雪解けの頃ともなれば、冬眠から覚めた熊やサル、カモシカなどとばったり出くわす危険もある。以下に動物と言えども、多くの場合は彼らから気づく事とはいっても、不意を突かれると反射的に襲い掛かってくることはよくあるのだ。
それが熊であれば、一般の人でも容易に想像できるかもしれないが、サルなども案外危険な事はあまり知られていないかもしれない。知能が高く、好奇心も旺盛な彼らは、餌を得るために人に襲い掛かってくることがあるのだ。
決してかわいいなんてものでは無い。柴犬かそれ以上の体格で木の上から攻撃されてしまえば人間など太刀打ちできず大けがをしてします。カモシカなどは好奇心が旺盛で、人が近くに行くまでじっと様子を見ていることがある。そのあと、逃げていくことが殆どだが、あの大きな体格の物体が、不意に視界に入ってくると心臓が縮み上がるほどびっくりするものだ。
そんなこんなを用心しながら、それでも竿を振り、山女がヒットした瞬間の醍醐味は一度知ってしまったら病み付きになる。自然の中をひたすら無心で歩き、我を忘れる感覚も東京での震災の記憶を和らげ、傷を回復させる何よりの薬ともなった。店を妻の貴子や母親に任せることの出来そうな日は、釣りを終えた後人知れずポツンとあるようなひなびた温泉につかり、さっぱりと汗を流すのであった。
夏が過ぎ、秋を迎え、山々の渓流も禁漁の時期を迎えた。魚が産卵時期を迎える為、アングラーと呼ばれる山の釣り人たちは、その活動を自粛するのであった。それまでの間、朝間詰めという、早朝の釣りを来る日も来る日も山川は繰り返した。貴子もそれについて何かいう訳でもなく、たまに土産といってコシアブラやシドケ、ウルイなどの山菜を山川が持って帰ると、喜んでおひたしや天ぷらにしてくれた。
そうしたある日、山川が貴子にポツンと聞いてきたことがあった。
「ここからそんなに遠くない場所で、山小屋を建てるのにいい土地があるんだ」と山川が言った。
「どうするの?」と貴子が優しく聞いた。
「地主のオヤジとも友達なんだけど、使ってもいいって言ってくれているんだ。そこに一間くらいの小屋を建ててみたい」と山川が言った。
「幸男君、そこに住むの?」と貴子が聞いた。
「うん」と山川が答えた。
「どんなところ?」と貴子が言った。
「釣りが出来る沢が近くにあって、小屋は昼位まで日が当たる少し平らな所に建てようと思うんだ」と山川が目を輝かせて言った。
「仕事は?」と貴子が聞いた。
「もちろん、今のまま。ちゃんと花屋を続ける。でも、自営業だしサラリーマンみたいに時間を拘束されることもないし、今迄みたいに上手く出来るから」と山川が答えた。
「私たちは正直無理だけど、いいよ」と貴子は山川が言い出すことをまるで分っていたように快く賛成した。
「息子でもいれば巻きもむんだけどな」と山川が嬉しそうに言った。
「たまには連れてってね。それとちゃんと、家にもいてね」どういった生活パターンになるのかを詮索する様子もなく、貴子が山川に言った。
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