19. グラップラー

2021年9月22日 平直行引退試合。極真会、大道塾を経て正道会館黒帯、ブラジリアン柔術黒帯、シュートボクシング世界ホーク級1位、キックボクシングUKF世界ライトヘビー級10位、プロレスインディーワールドJr.ヘビー級王者、更にレスリング、サンボを極めた男。その平直行のプロとしての最後の試合だ。

場内は歓喜に溢れ、同時にインターネットを通し世界中に総合格闘家、平直行の雄姿が映し出された。試合会場に来ることが出来なかった熱烈なファンたちはキーボードに思いのたけを書き込んだ。日本語、英語、数えきれない言語が配信された動画の上段下段に流れ込む。まだゴング前だというのに、今にも前に前に駆出しそうな、戦い待ちきれない平直行が画面に映し出されている。

洋一と絹江、そして「こいつも観戦させるからよろしくな」と直ヤンに託された息子の弘人がリングサイドに陣取っていた。

「何年生?」と絹江が優しく聞いた。「5年です」と弘人が少しはにかみながら答えた。弘人が洋一の左隣の絹江、さらに左に弘人と並んで、これから始まる友であり父親の姿を見つめていた。

ゴングが鳴った。洋一は友の最後のファイトに食い入った。直ヤンは最後の試合をシュートボクシングで戦った。最初のラウンドからバックハンド、踵落とし、投げ、あびせ蹴り、立ち関節。一機に立ち技によるバーリトゥードで相手を翻弄した。まさに型破り、スタイルに捉われない何でもありの攻撃が出来るのは平直行を置いてほかにない。寝技に持ち込んでの平の柔術を望んていたファンもいたであろうが、完全処理は間違いなかった。

「最後は強烈なバックドロップッ」というアナウンサーがマイクをつかんだ。直ヤンの体が後ろ側へ弓なりしなり、掴んだ相手を場外に放り投げた。

「ズッガン」という鈍い音と共に場内が突き上げられた。リングに張られたロープがたわみ、次の瞬間強力な力で引き伸ばされ、コーナーポストから引き剥がされた。

リングサイドにいた洋一の目に強烈なスポットライトが飛び込んできた。洋一が右側の腕で両目を遮ったその瞬間、鞭のように弧を描いたリングロープがその腕に巻きつくように襲いかかってきた。ロープが反動で引き戻され、洋一はそのまま右前方のリングの近くまで飛ばされた。

次の瞬間、リング天井の鉄骨がひしゃげて、その鉄骨に吊るされた、360度試合を撮影するためのカメラ機材が弾き飛ばされた。その中の一台、重さ50キロは有るだろう大型のカメラが弘人めがけて落下してきた。

「あぶない」絹江はとっさに隣にいる弘人の上に覆いかぶさった。弘人の座っていたパイプ椅子は弾き飛ばされ、硬い床に弘人が押し付けられた。その上に絹江が重なっていた。そしてカメラは絹江の背骨を完全に砕いていた。

絹江はかすかな意識の中をさまよった。「何も動かない。暗い。ヨウちゃん、助けて」叫んでもどこにも届かない。洋一はリング前で気を失っていた。リングを支える崩れた骨組みと骨組みの間に洋一の体がすっぽりとはまりかすり傷程度で済んでいた。

瓦礫が積み重なり、粉じんで茶色い闇となった競技場の中で、直ヤンは息子の弘人を探していた。「ひろとー、どこだ。返事しろ」。必死になり、右も左もわからない中を這いつくばって探し、叫び続けた。

「おとうさん」、小さな声が聞こえた。直ヤンは弘人がはいていた青いスニーカーを見つけ、その上に積み重なった鉄骨や、もはや形を留めていない機材類を持ち上げた。弘人は絹江の下で父親のリングシューズを見た。「お父さん。足が痛い」と泣きそうな声で小さく叫んだ。片方の足首が落ちた鉄板に挟まれていた。

直ヤンは冷静に素早く弘人の足の上の鉄板を持ち上げ、体と反対方向にある誰もいなさそうな場所へ投げ捨てた。そして、弘人を左腕で抱え、右腕で絹江を抱き起した。絹江の体は力なく直ヤンにもたれかかってきた。「ようくんを」とかすかに唇が動いたように見えた。

今にも建物が崩壊するかもしれない状況であり、直ヤンは自分の目の前の状況から脱出するしか選択肢がなかった。絹江のぐったりとした体を背中に背負い、息子の弘人を片手で抱きかかえ、もう一歩の手で瓦礫をかき分けながら建物のなかを必死に進んだ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました