エレベーターは使わず、非常用の階段をコツコツと降りてきた。最上階から1階までゆっくりと館内を回ることが湯本の日課になっていた。もちろん、警備員が日に5回館内を巡回してセキュリティ的に、あるいは設備面で、何か異常がないかを確認はしていた。
だが、それとは別な角度から、例えばサービスレベル的な問題が無いか、お客様が何か困ってはいないかなどの気づきを得る為の巡回のつもりだった。所長としての定常業務を出来る限り作らず、可能な限りスタッフに業務を任せていた。そして、自分自身は現実逃避のように、こうして館内を巡回していたのだった。
国内外問わず、いろいろなジャンルの会社、団体がデータセンターを利用していた。今の時代、ITシステムを利用しない産業は存在しないと言っても全く過言ではない。日本を代表する大手企業から、スタートアップしたばかりの新興企業まで、様々な規模やジャンルの会社が出入りしていた。
また、そこでは、それぞれの会社が事業として展開しているサービスもあれば、経理システムなど自社内で利用するシステムなどが構築されていた。そして、大規模なものになるとワンフロアまとめて契約するということも珍しくはなかった。
このデータセンターにおける最大規模のシステムとしては、山手線を中心とした関東圏の電車運行管理システムであり3フロアぶんをまるまる占有していた。メインシステムがここで運用されているのであるが、万が一それが止まってしまうと東京都内やそこと繋がっている近隣の電車運行がすべて止まり、場合によっては大事故に発展する可能性すらある。
また、グローバルにSNSを提供する会社のバックアップシステムも稼働していた。扱われる個人情報などのデータは、NASAが管理する全てのデータよりも上回るといった話も聞いたことがある。
データセンターではそれらの顧客システムが故障した際など、すぐに復旧措置を講じることができるよう、顧客との契約の中で対応手順を定めておく必要があった。顧客要望に基づき、予め提示されたマニュアルに従いシステム復旧の対応を行うのである。そのために、どういったシステムが構築されているのかなど予め理解しておく必要がある。
システムを動かしている各種サーバー、またそれらのサーバーが搭載されているラック周りの状況を湯本はゆっくりと見て回った。そして、歩きながら、この前のヘドロのような眩暈を脳裏に浮かんできた。
「安全神話とか、想定外の事態とか、いろいろと言っていたな。まっ、それも原発の話だけどな」とか、「まあ、のど元過ぎればということで、じきにまた酒が恋しくなるんだろうな」と取り留めもなく公園での出来事が思い起こされてきた。体調の方は回復していたが、あれ以来酒は飲んでいなかった。というよりも、飲む気にはなれなかった。
湯本は営業の朋子と共に、今週中に新規契約を取り交わす予定の契約内容を目を通していた。相手はフリーライフというIT系のベンチャー企業である。同業異業を問わず、企業買収を繰り返しし、急速にビジネス規模を拡大しつつある会社だった。
そのほか、既存顧客の追加契約も直近で控えていた。既に2年ほど前から契約がある自動車メーカーで、200ラック程度追加拡張するといった案件であった。フリーライフのシステムにも自動運転関連のものが含まれていた。
この自動車メーカーは、関連する部品会社などと、生産ラインの稼働状況などを共有し、効率的な部品供給を実現させるための統制管理システムを構築していた。更にこの既存システムを拡張し、様々なマーケティングデータに基づく各工場の生産ライン稼働コントロールや、各種材料の在庫管理、多種多様の部品や完成車の出荷に至る物流管理までを一元的に行う事を計画しているようだった。
また、国土交通省が実証実験を進めている自動運転のための道路交通情報統制システムがこのデータセンターをベースに構築されることが決定していた。国家主導の道路交通情報統制システムは、車の自動運転を実現させるためのインフラとなるものであり、国を挙げての成長戦略の一環として構築されることになる。高度成長期の新幹線のような位置づけの一大プロジェクトである。
その情報をつかんだ自動車関連のメーカー、なんとかそこに食い込むために自動運転をも含めたシステムを構築し、国が主導で進めようとしている道路交通情報統制の仕組みのへ食い込もうとしているのではないかと、契約書を読みつつ、湯本は根拠なく妄想していた。
一般的にどこそこのデータセンターに、どの様な会社が入っているとか、どういったシステムが構築されているといった状況は明らかにされない。位置情報いうことになるのだが、それが世間にしられたとたん、攻撃の対象となってしまう。データのハッキングや企業活動の妨害、国家的なプロジェクトであればテロの対象にさえなってしまう。
今回の国土交通省の実験システムは、それとは異なり関連企業への参画を促すものだった。実験が終了した時点で、本稼働するシステムはまだどこか別のところで稼働させることになるのだろう。
ただし、どうしても大量の電力を消費し、それに伴う発熱をコントロールしなければならないという事情から、実験環境ではあったがデータセンターが選ばれたのである。参画する関連企業の自動運転システムも、同じ施設内ということであれば、インターネットなどの通信を介さずとも直結も可能なのである。
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