9. サバの味噌煮

同じ日の朝、湯本はいつもの時間になんとかベッドを出るに出た。が、しかし歯磨きの最中、腹の底からこみあげてくる嘔吐に襲われトイレに駆け込んだ。右手は歯ブラシ、左手は便器をつかみ、そこにしゃがみ込んでしまった。やはり夕べの酒が完全に残っていた。まったく解毒されていなかったのだ。

それでもなんとかコンクリートの要塞へたどり着いたが、いつもより2時間も遅れてしまった。その巨大な塊には、あいも変わらずその内部をどくどくとした電力のエネルギーがうねり、電磁波が湯本の体を侵食してきた。単に二日酔いのせいではあったが、彼にとっては増幅された世の中の欲望や怒りや迷いが、どす黒いの渦となり自分を引き込んでいくように錯覚させた。

朝からの吐き気、頭痛は全く衰えず、椅子に座っていること自体が苦痛であった。湯本はどうにも耐えられず、苦めのコーヒーを求めて朋子のデスクに向かった。「うわっ、酒臭い。」と朋子が椅子から立ち上がり2~3歩退いた。「なんだよ」と湯本が反応した。「遊びすぎじゃない?夕べは午前様、それとも朝帰り?」と、少し離れた場所から聞いてみた。「関係ないだろ。お前だけ、やけにのんびりしているな。他の営業担当者はもう既にお客様回りに出かけているだろう。」と湯本が突き放し気味に言った。「ひどい、何よその言い方。」と朋子が反発した。「いいから、コーヒー。苦めのやつ。」と命令口調で湯本が言った。「断る」と強気の返事が朋子から返ってきた。それに対し反撃するように「おぇっ」と湯本が酒臭い息を吐きかけた。「うわっ、気持ちわる~い。あっちいけ、しっしっ。」といいながら、朋子が更に後ろへ退いた。それでもしつこく湯本が追いかけてきた。たまらず朋子は部屋を出て女子トイレの方へ逃げて行った。

湯本はしかたなく、自分で給湯室に行き、紙コップに緑茶のティーバックを入れポットの湯を注いだ。

昼近くになり、さすがにアルコールも少しだけ抜けてきた。しかしながら、まだ何も食べる気にはなれず、鞄に入った新聞を取り出し読んでみた。細かな字を見ると少しむかついてきた。

新聞には仮想通貨が盗まれた事件の結末が載っていた。捜査の結果、情報を管理する内輪の人間の仕業だったらしい。顧客が口座に振り込んだ資金を一時的に流用し、仮想通貨を買って利ザヤを稼いでいたのだ。仮想通貨は投機の対象となっており、価格の上下動が激しかったのだ。そのため、専門的な知識さえあれば、そうしたボラティリティを利用して利ザヤを稼ぐことが簡単にできた。

儲けたら、引き出したぶんを基の口座に戻すということを繰り返していたのだが、仮想通貨の大暴落で数百億を焦げ付かせてしまったのだ。それをごまかすために、仮想通貨を管理しているサーバーがハッキングされ、ネット上から盗まれたという状況をわざと作り出汁、ウソをでっち上げて誤魔化そうとしたようなのだった。

「9割は内部従事者による犯行だ」言っていた監査員の事を、湯本はぼんやりと思い出した。毎年、社外監査役がデータセンターに来て、運営管理状況をチェックしていく。その時に監査員が得意げに言っていた事だ。

「結局、情報管理面という意味では人を絞り込んだほうがリスクも低く抑えることができるってことかな。」と、他人事のように思いを巡らした。このセンター内で運用側にいる人間はごく少数だった。そして、「最近になって配属されて生きた坂本も、先輩の森がよく教育指導してくれているし、ここはひとまず安泰だ。」と、自分の都合よく思いを巡らしつつ、渋いお茶をすすった。彼にしてみると、その新聞記事の内容は完全に他人事だった。

世間一般にサラリーマンと呼ばれる人間からすれば、会社から与えられたミッションを達成するために努力する、会社への奉仕という姿勢を貫くことは当たり前すぎることなのであろう。そうした意味で、湯本は社内からは信頼を置かれていたし、これまでの実績や経験から大概の判断は正しい結果に結びついてきた。

しかしながら、湯本自身の感覚かれすれば、昔も今も会社への帰属意識など不自然なものに映り仕方がなかったのだ。ただ単にサラリーマンというぬるま湯が楽で、のんびりと、その湯に浸かっていたいのが彼の本音であった。

その湯本が立上げメンバーの一人として作り上げてきたデータセンターは、ひとまずは完成の域に到達していた。少なくとも社内の誰もがそう見ていた。この先企業努力としての進歩は必要ではあるだろうが、手探り状態の創成期から今現在にいたり、それなりの体裁は出来上がったとみてよかった。

過去にはライバル企業によるデータセンターも国内外にいくつも建設されてきた。だが、その殆どは莫大な初期投資の回収目途が立たず、また更に巨額の設備運営コストを賄えずに淘汰されてきた。ライバルが市場からほとんど姿を消し独占状態という、もぬるま湯に浸った様な状態が、今湯本らの置かれている状況なのかもしれない。

また、データセンターは既に成熟期を過ぎ、マーケット的にも枯てた領域に差し掛かったきている。会社側からしても、そうした安定期の商材は湯本に任せきっていたのだった。年齢的に既に50を超え、新たなプロジェクトを起こす立場でもなかったともいえる。こうしたことが、両者の共通認識であり、データセンターというインフラをもとに新たなビジネスを興そうという発想は生まれてこなかった。

しばらくして、新人の坂本が液浸冷却サーバーの企画書をもってやってきた。「所長、お客様が持ち込むサーバー機器からの排熱処理について提案させてください。お客様が設置するサーバーの高密度化が我々の考えている以上に進み、既存の冷却用空調では追い付かなくなりつつあります。そういった状況に対して、スーパーコンピューターの冷却技術に液浸方式というのがありますが、これを採用できないでしょうか。ば空冷から水冷へ変えてしまうのです。他社に先行して、今のうちから手を打つべきです。」と坂本は湯本に力説した。

湯本は坂本の提案に対し、特段関心をもつそぶりも見せず、「そんな事よりも、現時点の熱だまりポイントを調査し、取り急ぎ空調の気流をそこに集中させることを考えてくれ。」と、いつも通りの指示を、坂本へ与えた。更に、「森君の指示にしっかりと従うように。」と付け加えた。二日酔いも手伝い、まともに考える気にはなれななかったこともある。坂本は、そうした湯本の態度に渋々と所長室を後にした。そして、坂本の企画書は他の資料と共に机の上に重ねられた。

午後1時を少し回ったころ、森が所長室を訪れ、昼食に誘った。窓が無く景色のないデータセンターに一日中いるのは精神的にもよくない。あまり食べたくもなかったが、外の風にあたれば気分も変わると思い、森と共に湯本はデータセンターの外に出てみた。

森がいつも行きつけのところにしましょうというので、それに従い店に入った。ワンコインの定食屋だった。普段から食べ物に関しては湯本も森も文句を言うことは殆どない。たいがいのものは美味しいと思えた。今日のランチはサバの味噌煮だったが、店で料理したようなものではなく業務用レトルト食品だった。缶詰のサバ味噌と同じで味付けで、日替わりのメニューが多少変わっても似たり寄ったりのものだった。それでも、ほぼ毎日文句を言わずにその店で食べていた。

いつも通り店に入り、だいたいいつもと同じ席に着くと、条件反射なのか食欲が少し出てきた。サバを熱いご飯の上にのせ胃の中へかき込む。味噌汁で更にご飯を流し込む。ドンブリのご飯が半分になったあたりから、煮込んだ味噌ダレもぶっかける。十分に幸せを味わえた。特に飲みすぎた次の日は、この店の濃い味噌の味がちょうどよかった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました