「私」は存在せず、そこにあるのは生存本能に突き動かされる肉体のみです。このことを言葉に頼らず、体感できることが大切です。ただ自然に存在するだけ、ということを感じ取ればいいのです。
自ら然り(おのずからしかり)
「無為自然」という生き方があります。無為とは一切の作為がない、つまり私などの介入する隙など全く無い状態を指します。そして、自然とは、自ら然り(おのずからしかり)という言葉通り、神羅万象あるがままの様子を表しています。
「私」という作為的に造作された虚像ではなく、地球、または宇宙の法則に従い、太古の昔から今に至る無限の時間軸を包含し、万物在るがままの状態を意味します。
何の作為も無く、それでいて、すべてがそこに存在するというのが真実の姿です。
「私」はいない、無為でありながら自ら然り、自然はすべてを為している。それが無為自然というあり方であり、生き方です。
この道理から人間だけが外れているということがあろうはずもありません。ひとりとして例外なく、人も無為自然に生まれ、生き、そして死んでいきます。
解ける(ほどける)
死んだのちに、魂がどうなるかは誰にも知る由がありませんし、果たして魂とは何なのか、誰にもわかりません。わからないことは否定も肯定もできません。人間による想像の産物かもしれませんし、または何か人間には理解不能な自然の姿なのかもしれません。
ただし、死を迎えることで、自分自身に張り付いていた「私」という妄念が消滅するということは言えると思います。私が解け(ほどけ)、初めて自然な状態に戻ることができるのでしょう。死を迎え入れることで、空間や時間の無限性、奥深さに魂が気づき、安楽の境地にたどり着くのかもしれません。
しかしながら、仏(ほどける)になるという考え方は、決して死を持ってのみ理解できるわけではないでしょう。
生きているなかで、この解ける感覚に気づくことができれば、苦しみも悩みも瞬時に消滅し、平常心をもって、安楽に日々を過ごせるのでしょう。
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