6-3.気づき

人間以外の動物は外部からの刺激に応じて反射的に各種反応が発生しますが、人間の場合には、動物的な反応に加えて、自己意識もそこに介在します。

実は人間の苦しみは、この自己意識の介在に起因します。

苦しみの消滅

浮かんでは消え、浮かんでは消え、次から次へと目まぐるしく観念は移り変わります。

数千分の一ミリ秒という速さで、脳の神経回路を電気的なパルス信号が流れてゆきます。まさに瞬間的な反射作用です。これに応じて様々な観念が意識上を駆け巡りますが、そこに「私」という自我が介在する余裕など全くありません。

瞬時に「私」が考え判断し、その結果として観念が作られているとは到底考えられません。そのような余裕など皆無といえる程のわずかな時間、反射的に感情が動き、観念が形成されています。

瞬時に発生する観念を「私」が発信しているいうのは、思い込みに過ぎません。

次々に浮かんでは消えてゆく観念に対し、その瞬間ごとに「私」を介在させることなど、現実的に不可能です。すべての反応は一瞬の出来事なのですから。

やはり「私」は存在しない

「私」が考え判断し、その結果感情や観念が生み出されているのではありません。

脳の生理的な反射作用により、感情や観念は発生しています。

このことに気づくことさえできれば、本能がセットした苦しみという仕掛けは消滅します。感情や観念の主人公は存在せず、自然の営みがただそこにあるだけなのですから。

智慧

真理への気づきを智慧と呼びます。

智慧は人の生き方に確かな指針を与えてくれます。

「私」は脳内スクリーンに投影された虚像であるという真理は、苦しみを解消し、新たな道を歩むための大切な指標となり得るでしょう。

無我

無我という言葉を聞いたことはありますか?「無我の境地」などといった使われ方をします。

「私が存在しない」とは、この無我に他なりません。

老荘の時代から伝えられた人間のあり方の理想が無我であり、無我の境地に行き着くことは人間が求めてきた究極の姿ともいえるでしょう。

人間本来の姿

「私」が存在しないことを理解し、無我を求める。それは誰にでも出来ることです。特別な修行を経て到達する類のことでありません。

なぜなら、それは人間本来の姿だからです。

修行で会得するというより、もとの姿に気づくというのが正しい捉え方だと思います。人間の存在とは自然そのものです。つまり、無我とは誰の中にも元来存在しているものなのです。それが普段は「私」により蓋をされ、覆いかぶされているから気づけないだけです。

無我とは行き着く境地というよりも、既にここにある状態です。

私を無くす

「私」を消滅させるといっても、何もせずただ心臓が鼓動し、呼吸だけをしていればいいという事ではありません。また、世を捨て山籠もりしましょうなどと言い出すつもりもありません。

そうではなく、日常の生活を送る中で無我の状態を実感する必要があります。

社会を拒絶し孤立した生活をするのではなく、普段通りの日常を送る中で苦しみを減らし、本来の自然な状態に気づく方法を探ることが大切です。

そのために、心の動きや、感情・観念が支配しようとしている状況を俯瞰する習慣を持つよう心掛けてみましょう。

苦しみという副作用が肥大化している「私」を消し去り、「私」により覆い隠されていた無為自然が存在することを意識するのです。無我は誰にでも実感できる状態です。

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