何も考えず、何秒間頭の中を空っぽにしていることができますか?
何も思わず、何も考えず、思考を空白の状態にすることが可能でしょうか?
「何も考えないようにしよう。」、「何も思わずにいよう。」と心に念じても、考えない、思わないという言葉が浮かんできます。
私を統制している脳
鍼灸師という職業柄、東洋医学をベースにものごとを捉えがちになってしまうのですが、東洋医学では脳を神(しん)と呼んでいます。これは、私という個体を統制しているのは「脳」である、という意味です。
人間の体や精神は脳が主ります。脳が私を統制しているなんて、至極当たり前のことですね。でも、脳が神であるという言葉を聞くたびに、しっくりこないというか、実感とかけ離れたイメージを抱いていました。。
もう少し詳しくいうと、人間をコントロールしているのは、脳という”物体”であり、私という意識体ではない、ということに違和感を感じていたのです。私が主体なのではなく、脳という有機体が統制者なのです。
つまり、私が自分自身の心身を自由に操っているのではないのです。脳が構築した生存システムに心も体も動かされているのです。
しかし、脳がすべての司令塔であることについては、疑いを差しはさむ余地は、まったくありません。
それゆえ、分子や原子の集合体である脳が自分自身であり、「私」と自覚する実態そのものは、物体に過ぎないと言えるのではないでしょうか。物体ということであれば、個体差こそあれ自然の営みに準じて動いているということになります。海の潮に干満があり、月が三日月から満月に変化するように、自然の摂理に従い脳も動いているはずです。
実体のない私
私という自己意識では、脳を制御することはできません。そして、私という意識は実体ではありません。こう考えると、私という意識は、常に心に浮かんでは消えてゆく観念と変わらないのではないか、と思えてしまいます。
自分自身という意識といっても、自分では制御できないのです。どうやら、「私」といえる実態は存在しないようですね。
物事の変化を感じ、考え、喜び、怒り、欲する脳が、「私の発信源」といえるのではないでしょうか。脳は「私」そのものではありません。私自身であるかのように、「私」という虚像を映し出し、あたかも主役のように躍らせていた、ということではないでしょうか。
意識を主る脳こそが、「私」を発現させる本体です。私を統制している、まさに神という存在なのです。私からは神である脳を制御することはできません。しかし、脳は常に私を操っているのです。
精神活動を含め、生命を維持するために、すべての統制指示を行っている「脳」が存在していただけのことです。大きな意味では、自然の法則に従い、脳という物体(またはエネルギー体)が存続していただけなのです。
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